英国で現在もつづく最古の日刊紙、『タイムズ』の歴史にまつわる様々なエピソードを全45話の短い記事にまとめました。

おおよそ時系列順になっておりますが、ご興味のひかれるところからぜひお読みください。

230年以上にわたる『タイムズ』の波乱万丈な歴史を知ると、The Times Digital Archive の利用がますます楽しくなるかも…?

タイムズの影響力

  • タイムズと穀物法廃止

    タイムズ紙が時の政権の政策に大きな影響力を持っていたことを示すエピソードを一つ。19世紀前半のイギリス政治の争点の一つに穀物法があった。穀物法とは、輸入穀物に高額関税を課す法律で、穀物を生産する土地を保有する地主の利害を守るための保護貿易制度だ。自由貿易を志向する産業家は穀物法に反対した。選挙制度を通じて地主の影響力が依然として大きい議会の外では穀物法に反対する組織的な運動が盛り上がり、1840年代には穀物法が俄然、議会の大きな争点に浮上した。

    基本的に産業家の立場に立つタイムズ紙は、穀物法反対の論陣を張った。そして、1845年12月4日のタイムズ紙に突然、次の記事が掲載されたのだ。「内閣の決定はもはや秘密ではない。1月の第1週には議会が招集され、女王の勅語の中で穀物法の最終的廃止に向けた審議が勧告されることになるだろう。」この記事が引き起こした騒ぎは大きかった。首相のロバート・ピールは女王への書簡の中で、「陛下の臣下が穀物法の即時全面的廃止に全会一致で賛成したとの記事は全く根拠のないものです」と弁解を行なったが、公には記事に対する反論は行なわなかった。最終的に、穀物法は1846年ピール内閣により廃止された。

    ところで、穀物法を巡る情報をタイムズ紙がすっぱ抜いた話には後日談がある。首相に批判的なタイムズ紙がどうして、政府系新聞すら知りえない情報を入手することができたかを巡って、様々な憶測が飛び交った。その中で長く語り継がれることになったのは次の噂だった。ピール内閣の官房にいたシドニー・ハーバートがノートン夫人というシェリダンの孫娘にあたる美貌の女性と密会している時に内閣の決定を漏らし、当時お金に困っていたノートン夫人がタイムズ紙にこの情報を持ち込み、500ポンドで売ったと言うのだ。根拠のない話しではあったが、この噂は忘れられることなく、その後膨らみ、ジョージ・メレディスの ”Diana of the Crossways” という小説に素材を提供することになった。
     

  • タイムズの独自通信網

    19世紀は交通と通信が発達した時代だ。新聞は遠方の出来事を他紙に先駆けて報道することに鎬を削った。海外に多くの領土を持っていたイギリスの新聞にとっては、とりわけ情報の早さが重要な意味を持った。そして、この点においても、時代を一歩も二歩も先んじていたのがタイムズ紙だった。

    タイムズ紙の情報が早かったのは、各地の特派員と代理人と汽船から構成された独自の通信網を備えていたことによるもので、これはイギリスの他の新聞はもちろん、政府の通信網すら凌いでいたと言われる。一つ例を挙げると、インドで反英騒擾が発生した時、不測の事態が起こり政府系の通信網が途絶えたが、最終的にイギリス国内に情報が届けられたのは、タイムズ紙が運営する汽船に運ばれてのことだった。政府を支援した形のタイムズ紙は、この情報を政府から入手し、独占的に報道するという栄誉に浴した。

    政府系の情報網が入手していないような情報まで素早く入手するタイムズ紙は、政府の要人からも重宝がられ、タイムズ紙が彼らとの人脈を築く上で役に立った。また、東洋の商品の最新の市場価格を他紙に先駆けて伝えるタイムズ紙は、シティーでもその声価を高めることになった。
     

  • 不偏不党、中立公正な報道

    新聞の報道が客観的、中立的であるかどうかは、議論の分かれることかも知れない。同じ出来事を報道する場合でも、新聞によって報道の視角は異なり、また特定の政策に対する見方も異なる。紙面の構成にもおのずからその新聞の色合いが出る。アメリカの新聞のように、大統領選に際して、特定の陣営への支持を明確にする場合もある。だが、政党の機関紙とは異なり、一般紙は特定の政治的主張や主義に拘束されていないという意味では、客観的、中立的立場を追求していると言えるだろう。日本の代表的な日刊英字新聞ジャパンタイムズの一面題字の上には同社のモットー ”Without Fear or Favor” が掲げられているが、これは「不偏不党、公正」という意味だ。だが、このような報道の立場は、歴史を遡れば自明のことではなかった。

    タイムズ紙は、元々創刊当初は政府の補助金により運営され、政府からの情報を基に報道する傾向にあったが、創刊後20年ほど経過したところで、政府の補助金に頼り、情報源を政府筋に依存する姿勢から決別し、独自の情報収集システムを築き上げる方向に乗り出した。革新的な印刷技術と広告がそれを可能にした。1812年には一時間に片面刷りで250枚した印刷できなかったのが、1827年には両面刷りで4,000枚印刷できるようになったと言われる。また、広告掲載を積極的に導入した結果、広告収入が飛躍的に増加し、政府への依存脱却に大いに貢献した。

    政府から政治的にも経済的にも独立したタイムズ紙は、イギリス国民のために発言する立場を鮮明にし、イギリスを代表する新聞との評判を打ち立てることに努めた。政府とは是是非非の関係を保ち、あくまで公共の立場からその論陣を張った。その論陣を率いた編集長トーマス・バーンズは「イギリスで最も権力を持つ男」と時の大法官(上院議長)から呼ばれた。

    現在では新聞が、不偏不党で中立公正な立場から報道することは普通のことである。だが、歴史を遡れば必ずしもそうではない。そして、この姿勢を最初に掲げたのはタイムズ紙であったのだ。
     

  • リスペクタブルな人々のためのリスペクタブルな新聞

    19世紀になるとイギリスでは、日刊紙だけでなく夕刊紙、日曜紙が多数販売されるようになった。特に日曜紙は日刊紙を購読する時間もお金もない労働者階級の人々に受け入れられた。そして、日曜紙ではボクシング等の格闘技や残忍な殺人事件が読者の好奇心を煽るのがよく見られた。

    タイムズ紙はこれらの流れから一線を画した。特定の読者層を予め想定することはせず、イギリス国民全体に向けて語りかける戦略を取った。時代はフランス革命を経て国民国家の時代が到来しつつあった。貴族でもなく、産業資本家でもなく、労働者でもなく、特定の身分、階級を超えた国民なるものが形成されようとしていた時代にあって、タイムズ紙は新しい時代の空気を敏感に感知したのだ。

    社会が大きく変化を迎える中にあって、旧弊な制度の温存に加担するのでもなく、社会の急激な変革を求めるのでもないところに、時代は新しい価値観を求めていた。自助をベースに社会の緩やかな変革を求める良き市民。この価値観を表現する言葉を探すとすれば、”respectable” が相応しかろう。タイムズ紙は、リスペクタブルな人々のためのリスペクタブルな新聞だったと言えるだろう。
     

  • フォース・エステートの先駆け

    「フォース・エステート(The Fourth Estate)」という言葉がある。日本語では「第四階級」あるいは「第四権力」と訳される。第一権力は僧侶、第二権力は貴族。僧侶と貴族は、ヨーロッパの中世で大きな力を持った二大身分だ。そして、第三権力は平民。僧侶でも貴族でもないが、人口の大部分を占める層が、近代になると次第に力を蓄えるようになった。フランス革命勃発の年に出版されたシエースの『第三身分とは何か』の「第三身分」も、平民のことだ。平民が主役の時代が到来しつつあった。

    ところが、ちょうど同じ頃、第四権力という言葉が使われるようになった。僧侶でも貴族でも平民でもない存在を指す言葉だ。最初は様々な意味で使われたようだが、何時の頃からか、新聞に代表されるメディアを指す言葉として定着した。メディアが政治を動かす存在であることが、人々によって意識されるようになった証拠である。

    そしてタイムズ紙は、第四権力の名に相応しい影響力をイギリス政治に及ぼしたと言われている。象徴的な例を一つ挙げる。あのナポレオンの甥のルイ・ボナパルトがクーデターによってフランス皇帝になった時、イギリス外相パーマストンは独断でこれを承認した。これに対してタイムズ紙はパーマストンとルイ・ボナパルトを攻撃する論陣を張り、女王もパーマストンを非難するに及び、パーマストンは辞任に追い込まれ、内閣も辞職するに至った。後継のダービー首相は議会の演説の中で、新聞が政治への影響力を強めている現状を憂慮し、タイムズ紙を名指しで批判したのだ。

    これはおそらく、新聞の影響力の大きさが議会の場で初めて公式に認められた瞬間だろう。

    ルイ・ボナパルトをめぐるイギリス政治とタイムズ紙の事例は、新聞が政治を動かした歴史の先駆けとして記憶することができるだろう。

タイムズ vs 郵政省

  • 海外情報入手をめぐる争い

    電信が発明される前、外国の出来事を出来るだけ早く伝えようと新聞は競い合った。タイムズ紙が創刊された頃、イギリスの新聞にとっては外国の新聞が外国のニュースを報道する際の情報ソースだった。ところが、外国の新聞記事の流通は政府の統制の下に置かれていたため、新聞社が自由に翻訳することは禁止されていた。外国の新聞の翻訳は郵政省で行なわれた。そして、翻訳された記事を受け取る代わりに、新聞社は郵政省に毎年代価を支払わなければならなかった。イギリスの新聞の中には、郵政省の役人に賄賂を贈り、外国の記事をいち早く入手しようという慣行も見られた。

    創業者のジョン・ウォルターはこの制度を順守する姿勢を示したが、息子のジョン・ウォルター二世は政府の統制を潜る抜ける方法を見出すことに努めた。そして、自前の特派員と翻訳家を抱えることにしたのだ。これが郵政省の役人の恨みを買うことになった。この時代の郵便は、現代では考えられないほど、郵便物の遅配、誤配、紛失が日常的に見られたが、タイムズ紙宛ての郵便物が郵政省の役人によって意図的に配達が遅らせられることもあったらしい。ウォルター宛の郵便物が郵政省の役人により開封された疑いすらあったと言う。

    大陸でナポレオンとの戦争が起こっていた頃、外国紙の情報が郵政省を通じて入らなくなった時、タイムズ紙は郵政省への支払いの必要なしと考え、これを止めた。すると、郵政省の役人はグレイブズエンドに船で乗り込み、タイムズ紙宛の郵便物を押収した。タイムズ紙の抗議に対して、郵政省は、郵政省以外のチャンネルを通じて外国の新聞を受け取ることは禁止されているとの型通りの声明を出した。

    タイムズ紙は郵政省にとってみずからの利益の基盤を掘り崩そうとする憎むべき存在だったのだ。

  • 郵政省によるタイムズ告発

    タイムズ紙は郵政省との争いを記事にし、強要し、公共の利害を犠牲にしたと、公然と郵政省を批判した。政府を敵に回し、公共の精神に訴えかけたのだ。この後、タイムズ紙は政府をはじめとする諸々の特定の利害を批判の俎上に載せる際に公共に訴えかける戦略を取るが、郵政省との紛争はその最初期の事例だ。

    「郵政省は政府にとって不名誉な組織だと見なさねばならない。低劣な精神が郵政省という組織の隅々まで浸食し、個人の強欲さのために公共の便宜が犠牲にさらされている。自らが受けた仕打ちに対して、本紙に抗議する権利があるのは言うまでもない。」(1807年5月9日の記事)

    「敢えて言うなら、(郵政省の)フリーリング氏とスタンホープ氏は、本紙宛の郵便物を意図的に遅配するという不当な行為を黙認したのである。スタンホープ氏がこれらの行為から利益を得ていたことを証明する用意も本紙にはある。この二年間本紙はフリーリング氏に対して抗議の意思表示をしてきたが、氏は、民間人が外国の新聞を受け取ることは法に違反する行為であり、郵政省が唯一流通する権利を議会によって与えられているのだと、厚かましくも言い立てたのだ。」(1807年5月12日)

    郵政省は即座に反応した。5月9日の記事を名誉棄損としてタイムズ紙を告発した。5月14日タイムズ紙は、「郵政省から告発を受けたが、このような脅しにあっても本紙は微塵も怯むものではない。」と、まったく譲る気配も見られない。

  • 大陸封鎖令下のタイムズ

    タイムズ紙と郵政省はついに裁判所で争われたが、郵政省の不正に対するタイムズ紙の告発は証拠がなかったため、タイムズ紙の勝訴にはならなかった。

    この頃、ヨーロッパ大陸ではナポレオンが覇権を握り、多くの地域を支配下に置いていた。大陸封鎖令を発令し、イギリスをヨーロッパ諸国との貿易から締めだそうとした。その結果、他の商品に加えヨーロッパ大陸の新聞がイギリス国内に入ってこなくなり、外国の記事を国外の新聞に依存していたイギリスの新聞にとって重大な事態が齎された。外国の新聞の輸入を独占的に扱っていた郵政省も、新聞社から代価を受けていたわけだから、深刻な事態は同様だった。

    だが、ここでもタイムズ紙の存在感は際立っていた。独自のチャンネルを通じてフランスの新聞をイギリス国内に持ち込んだのだ。ナポレオンとの戦争に関する情報を渇望していた人々を喜ばせたのは言うまでもない。ロシア大使館をはじめロンドン在住の外交官からタイムズ紙に対して感謝の気持ちを伝える書簡が幾つか残っている。外交官はタイムズ紙に感謝するばかりか、情報の確認まで求めた。それだけ、公式のチャンネルを通じた情報が届くのが遅かったということだ。外交官ばかりではない。イギリス外務省までタイムズ紙に書簡を送り、ナポレオン戦争の最新情報を知ろうと試みた。

    タイムズ紙は、裁判では郵政省を追い込んで勝訴に持ち込むことができなかったが、政府の機関よりも早く外国の情報を持ち込んだことで、人々の情報への渇望を満たすという新聞の使命を果たしたと言えよう。

  • タイムズと外国特派員の誕生

    十九世紀の幕が開けると、イギリスは幾度もフランスと戦争を行なった。フランスではナポレオンが登場し、ヨーロッパ大陸の各地でイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアなどの国々と戦火を交えた。イギリス国内でも大陸での戦争の情報が新聞紙面で大きく取り上げられた。そして情報を早く正確に入手することを目指して、新聞各紙は競い合った。その中で生まれたのが外国特派員である。当時外国に関する記事は外国の新聞を翻訳してそのまま転載するのが普通だったところに、自社の特派員を派遣して、独自の取材を試みようとしたわけだ。そして、最初に外国特派員を派遣し、独自の取材ネットワーク網を作ったのは、他でもないタイムズ紙だった。五十年後のクリミア戦争の時、タイムズ紙は記者を戦地に派遣し、従軍記者の誕生を演出したが、外国特派員を初めて世に送るというジャーナリズムの歴史における栄誉にも浴することになったのだ。

    派遣された外国特派員は数人したようだが、最もよく知られているのはヘンリー・クラブ・ロビンソンである。ロビンソンが派遣されたのはドイツ北部のアルトナ(現在のハンブルク)。元々ドイツ文学に精通し、ゲーテやシラーとの交際を持ち、ジャーナリストというよりも文人肌のロビンソンにとって、アルトナでの勤務は文学的想像力を刺激するものだったようだ。ロビンソンの他にも、多くの特派員らが集まり、情報を交換し合ったアルトナは、さながら北部・中部ヨーロッパの情報の集積地の様相を呈したと言われている。
     

タイムズと技術革新

  • ケーニヒの蒸気印刷機

    タイムズ紙が創刊された頃、印刷技術はまだ手動で、グーテンベルクの時代からさほどの進歩を見せていなかった。だがタイムズ紙の創刊後二十年ほど経過すると、印刷の世界にも技術革新の波が押し寄せるようになった。すでにイギリスでは、蒸気機関の改良と様々な紡績機の発明をバネとして綿工業において生産の効率化と機械化が進み、後に産業革命と呼ばれる生産・交通システムの大転換が軌道に乗り始めていた。繁栄を謳歌した十九世紀の大英帝国に向けて社会の様々な局面で舞台が整いつつあったのだ。実際、タイムズ紙が創刊された1780年代は、カートライトによる蒸気機関等を動力とする力織機の発明、ワットによる蒸気機関の往復運動を回転運動に変換する技術の発明と、蒸気機関に関わる革新的な発明が相次いだ。そして、タイムズ紙の印刷技術に大きな転換を与えることになったのも、蒸気機関であった。

    画期的な印刷技術を発明した人物の名前はフレデリック・ケーニヒ。19世紀初めにイギリスに来たドイツ人技師だ。ケーニヒは蒸気機関を動力とする平圧式印刷機を開発し、さらにシリンダー印刷機も製作して印刷効率をさらに高め、印刷機の機械化を一気に推し進めた。ケーニヒは当初から自分が発明した印刷機を新聞の印刷に使うことを考えていたらしく、最新の機械をモーニング・クロニクル紙のジェイムズ・ペリーとタイムズ紙のジョン・ウォルター二世に見せたようだ。価格が高すぎるため購入を躊躇ったペリーに対して、ウォルターはこの最新の機械が将来、自身の経営する新聞に多大な経済的恩恵をもたらすことを即座に見抜き、その場で二台購入することに合意したと言われる。いつの時代にも新しい技術や動向をいかに判断するかが、第一級の経営者であるかどうかの試金石になる。タイムズ紙の社主ウォルター二世はその先見の明により、第一級の経営者としての資質を発揮したと言えよう。
     

  • 史上初の蒸気印刷機による印刷

    タイムズ紙では、最新の印刷機の導入は秘密裡に進められたようだ。当時イギリスではラッダイト運動と呼ばれる機械打ちこわし運動が繰り返されていた。機械が仕事を奪うのを恐れた職人が機械を破壊して回ったのだ。経営者からすれば高価な印刷機を破壊されたら堪ったものではない。とは言え、事を秘密に進めるのは無理だったようで、植字工や印刷工の妨害にあったらしい。

    だが職人の抵抗も空しく、1814年11月28日、新聞が史上初めて蒸気機関を利用した印刷機により印刷に付された。イギリスのみならず世界の新聞史上の画期と言ってよいだろう。翌11月29日、タイムズ紙の一面に次のような案内が掲載された。

    「本日、本誌は公共の方々に向けて、印刷に関わる最大の改良の成果を提供いたします。本記事を読む読者の皆様は、巧みの装置が昨夜世に送り出したタイムズ紙の数千部の中の一部を今手にしておられます。人間の労力を軽減し、速度においてあらゆる人間の力を凌ぐ、ほとんど有機的とも言える機械が発明されたのです。」
     

  • タイムズと近代印刷技術の革新

    ケーニヒの印刷機によって、それまで時間当たり250枚のペースで印刷していたのが、時間当たり1,100枚印刷できるまでになった。従来の4倍以上の速さである。翌日の新聞に載せるための原稿の締切時間がこれまでより遅くても良いわけだから、旧来の印刷機を使っている競争相手の新聞社に対してタイムズ紙は大きく優位に立つことになった。

    だが印刷技術の革新に向かうタイムズ紙の情熱はこれだけで終わらなかった。新たに採用したイギリス人技師ウィリアム・クーパーが新しいシリンダーの原理を使って印刷機に紙を通す方法を開発したことで、印刷機から印紙が離れる前に両面に印刷することが可能になった。厳密に言えば、クーパーの印刷機は一回のオペレーションで両面印刷をする最初のものではなかったが、その実用性は高く、両面印刷機の大成者だった。そして、クーパーがアプルガスとともに1827年、四本のシリンダーを使った印刷機を開発し、時間当たり両面4,000枚の印刷が可能になった。

    その後もタイムズ紙は、時代の最先端の印刷技術を貪欲に取り入れていった。最初の輪転印刷機も、印刷後に紙を切断する方法も、最初に実践に移されたのはタイムズ紙だった。タイムズ紙は一新聞を超えて、近代印刷技術の革新が繰り広げられた舞台装置でもあったのだ。
     

  • 広告収入というビジネスモデル

    最先端の印刷機を取り入れたことは、タイムズ紙にどのような効果を与えたのだろうか。販売部数が以後増加することになった。ケーニヒの印刷機を導入した頃は約5,000部だった部数が、1820年代に入る頃はその2倍の10,000部になった。また、広告の掲載件数が多くなり、当時の新聞が政府や政党からの補助金に依存して経営されていたのが、補助金に依存しない経営が可能になり、政府や政党から政治的にも経済的にも独立することが可能になった。

    新聞の経営が購読料と広告収入で成り立っているのは現在では普通である。そして、インターネットを通じた情報の流通がこのビジネスモデルを岐路に立たせている。新聞は先駆的なものも含めれば、四百年以上の歴史を有するが、広告を基盤に運営するという新聞のビジネスモデルが生まれたのは二百年前に過ぎない。そして、このビジネスモデルはタイムズ紙が先導したと言っても過言ではない。

    新聞と言えばとかく記事だけに目が行きがちだが、新聞広告もその時代を映す大切な鏡である。広告から当時の人々の欲望を探ることもできよう。広報宣伝という視点からもタイムズ紙は有益な情報を提供してくれるだろう。
     

  • 議会情報の報道

    今も昔も新聞が伝える様々な記事の中では、議会情報などの政治関連の記事が最重要の位置を占めると言えるだろう。世界で最も早く議会制度を軌道に乗せたイギリスでは、政治家の発言や討論、政府の発行する資料を新聞が競って報道することに努めた。

    ところで、録音機器に恵まれた現代の記者と異なり、昔の記者は議会の審議をどのように記事に仕立て上げたのだろうか。記録を取って記事にしたと想像されるが、実はイギリスでは議会での記録は長らく禁止されていた。少なくともタイムズ紙が創刊された頃はそうだった。だが、どのような制約が課されていても、人間は与えられた条件の中で様々な能力を開発する術を身に着けているようだ。記録が禁止されていた時代、新聞記者は記憶に頼った。中でも、モーニング・クロニクル紙を創刊したウィリアム・ウッドフォールは超人的な記憶力の持ち主だったらしく、「いつもゆで卵をポケットに入れては議会に向かい、席に着くと議会の審議を最後まで聴き、オフィスに戻るとそれを思い出しながら数ページ分もの原稿にするのだ。」と、同時代人は驚きをもって証言している。「メモリー・ウッドフォール」の異名も持っていた。

    その後、議会での記録が解禁されると、今度は速記術が編み出された。タイムズ紙は早い時期から議会情報の報道に注力していたが、記事を充実させるために速記術をマスターした記者の一団を議会に送り込んだと言われる。議会関連の記事で他紙の追随を許さないまでに成長したタイムズ紙は、いつの頃からか「記録の新聞(newspaper of record)」と呼ばれるようになった。タイムズ紙に「記録の新聞」の称号が与えられた背景には、速記術をマスターした記者たちの取材があったのである。
     

タイムズとジョージ四世

  • ジョージ四世追悼記事

    1714年、イギリスはドイツのハノーヴァー家から君主を迎え、ハノーヴァー朝が始まる。以後1830年までの116年間、ジョージという名前の四人の国王が在位した。ジョージ一世からジョージ四世である。タイムズ紙が創刊された1785年はジョージ三世の在位期間だ。晩年ジョージ三世は精神障害を患ったため公務遂行が困難になり、息子のジョージ四世が摂政(リージェント)を務めた。ロンドンの名所、リージェント・ストリートやリージェンツ・パークに名前を残すジョージ四世だが、生前から評判は芳しくなかった。素行が悪く、浪費も桁外れだったと言う。

    1830年にジョージ四世が逝去した時、タイムズ紙は追悼記事の中で「亡き王には、その生涯に亘って多くの世代の親友がいたが、彼らの性格は動物的放縦を超えるものではなかった。その親友の中には、道徳的な属性は無論のこと、知的な属性の点で卓越した人物の名前を一人たりとも、見出すことはできない。」と、亡き王に鞭打つような言い方をした。

    この記事を王に対する名誉棄損だとして、セント・ジェーイムズ・クロニクル紙が噛み付いたが、タイムズ紙は動じることなく、更に追い打ちをかけるような記事を出した。「我々はこれまで、恨みや個人的な感情は抜きにして、王の悪しき行いを教訓や警告の意味で記事の中で指摘することが責務であると考えてきた。王に優れた点があるのであれば、それを賞賛することに喜びを見出しただろう。だが、事実は正反対だった。亡き王ほど、その死を同胞から嘆き悲しまれることのない人はいるだろうか?誰がその死に涙を流しただろうか?」

    ジョージ四世はどうしてタイムズ紙にここまで酷評されなければならなかったのだろうか。
     

  • キャロライン王妃事件

    ジョージ四世は若いころから素行が悪く浪費も桁外れだったが、それに加えて多くの同時代人の反発を招いたのは、妃キャロラインに対する仕打ちだった。王室スキャンダルと言えば、今も昔もメディアが好む話題だ。最近のところでは、イギリス王室のチャールズ皇太子とダイアナの離婚が記憶に新しいが、ジョージとキャロラインのスキャンダルもこれに似ている。

    キャロラインはドイツの公国の出身。27歳の時、イギリスに渡り、皇太子のジョージと結婚。だが、初対面の日から二人の反りは合わなかったらしい。おまけにジョージには結婚以前から数人の愛人がいて、結婚後もその関係は続いていた。子供は出来たものの、二人の間は次第に疎遠となり、遂に別居。ジョージは離婚のための口実を見つけていたようだ。キャロラインが外国に滞在している間も密偵を送り込んで、キャロラインの生活を監視していたらしい。イタリア滞在中に侍従の男との間に不貞を働いた疑いがキャロラインに浮上すると、王妃の特権を剥奪し国王との結婚を解消する王妃に対する刑罰法案が議会に提出された。

    これが世に言う「キャロライン王妃事件」である。タイムズ紙はキャロラインを擁護する論陣を張った。キャロラインを最も強く擁護する新聞であった。離婚を承認する法案が議会に提出されると、離婚を拒否するキャロラインは、ジョージに対する書簡を書き、これがタイムズ紙に独占的に掲載された(1820年8月20日)。コベットの起草になる書簡は、キャロラインの弁護士を通じてタイムズ紙の主筆トーマス・バーンズの手に渡ったようだ。

    離婚承認法案は最終的に議会で否決され、キャロラインは妃の地位に止まる。だが、その後もジョージの戴冠式への出席を拒まれるなど、悲運は続く。そしてジョージの国王即位の翌年、急逝した。

  • タイムズのキャロライン王妃擁護

    タイムズ紙がキャロライン王妃を擁護したのは、虐げられた王妃に対する義憤の念に駆られてというよりも、むしろ世論の動向を見据えた上での判断だった。イタリアでの王妃の不貞疑惑に関する調査、国王の反対を振り切ってのイギリスへの帰国、国王との結婚を解消させるための刑罰法案の貴族院での審議は、新聞紙上で大きく報道され、大衆の関心を惹きつけた。圧倒的多数の国民はキャロラインを擁護し、その帰国を歓迎した。タイムズ紙は1820年6月5日の帰国の翌日、社説で、「これまでイギリスの海岸には様々な上陸が行なわれ、その後の戦争や革命の発端となった。主なものを挙げると、ウィリアム征服王のヘイスティングス上陸、ヘンリー七世のミルフォード・ヘイブン上陸、オレンジ公のトーベイ上陸だ。・・・・・だが、これらの上陸も、昨夜の女王のイギリス再上陸に比べれば、この大都市の人々の高揚感は大きくはなかったであろう。」と、興奮気味に女王帰国を歓迎した。

    フランス革命勃発から30年ほど経過し、社会には旧弊な制度に対する反抗の機運が高まりつつあった。そのような状況の中で起こったキャロライン王妃事件は、専制的な政府に対するプロテストのシンボリックな意味を持つようになったと考えられる。時代の世論を敏感に感じ取ったタイムズ紙は、世論の導きにしたがってポジションを定めるという、当時としては革新的な方針を編み出したのである。キャロライン王妃事件の報道により、タイムズ紙の販売部数は7,000部から一挙に15,000部に増加したと言われている。
     

タイムズとクリミア戦争

  • クリミア戦争

    タイムズ紙の歴史の中で、クリミア戦争の時ほど同紙が大きな役割を果たしたことはないと言われている。クリミア戦争とは、西アジア地域への南下政策を展開するロシアとオスマン=トルコ帝国との間での領土を巡る対立に端を発し、イギリス、フランスがオスマン帝国側と同盟しロシアと戦った、19世紀半ばの大規模な戦争だ。戦争はオスマン帝国と英仏の同盟軍が勝ち、ロシアが敗れる。ナイチンゲールが従軍看護婦として献身的に負傷兵の看護に当たった戦争としても知られていよう。日本では、ペリーの黒船が来航し、激動の幕末の幕が切って落とされたばかりの頃だ。

    この戦争にイギリスが参戦する前からタイムズ紙は、戦争報道キャンペーンを張り、対ロ戦争支持へと国内世論を喚起するのに大きな役割を果たした。これだけ大きな影響力を持ったのは、当時のタイムズ紙の発行部数がライバル紙の発行部数の合計よりも多かったことが、一つ原因として挙げられる。また、情報が正確で速いという評価は、創刊後八十年ほど経過したこの頃にはすでに確立していたらしく、イギリス政府の最後通牒をロシア皇帝が知ったのは、最後通牒の原本を受け取るよりも前に、タイムズ紙上であったと言われている。
     

  • タイムズの戦争報道キャンペーン

    クリミア戦争の時にタイムズ紙が行なった戦争報道キャンペーンは、一つには政府の組織に向けられた。イギリスはこの時、ナポレオン戦争の時から四十年ほど戦争を行なっていなかったため、大規模な軍隊を国外に派遣する準備が十分に整っていなかった。戦争を統括する独立の省も存在していなかった。そこでタイムズ紙は、軍隊の統制を内閣の下に一元化させることを紙上で主張する。このキャンペーンは政府に組織改革を実行させるまでに成功を収めたと言われている。

    また、このキャンペーンは政府の組織を超えて、一国の統治機構にも一定の影響を及ぼすことになった。議会政治、選挙制度の改革が進んでいたとはいえ、この時代のイギリスの政治は依然として少数の貴族の手に握られていた。軍隊も同様にその多くは貴族の子弟で構成されていた。このような状況にあって、クリミア戦争は近代社会において貴族が統治する能力の有するかどうかを測る試金石と見なされた。貴族がクリミア戦争に際して白日の下に晒した統治能力の欠如は、新興中産階級から絶好の攻撃材料と捉えられ、新興中産階級を代弁するタイムズ紙は、近代的な政治の運営に向けたキャンペーンを成功裡に展開することになった。

    以上のように、クリミア戦争に関するタイムズ紙の報道からは、クリミア戦争そのものを超えて、貴族が統治する時代から中産階級が政治の主役になる時代へとイギリス社会が転換する時代の諸相までもが、透けて見えてくる。ここまで期待できるのは、同時代に多くの新聞が発行されていたとは言え、タイムズ紙のみである。
     

  • タイムズとナイチンゲール

    クリミア戦争は、ナイチンゲールが従軍看護婦として負傷兵の看護にあたった戦争としても知られているが、ナイチンゲールが従軍看護婦として戦地に赴くことになったのは、実はタイムズ紙の報道が契機だった。タイムズ紙は戦地に従軍特派員を送っていたが、戦地における医療物資の不足と医療環境の劣悪を明らかにし、救援を訴える特派員の記事が掲載されると、ロバート・ピールのような政界の大物を筆頭に、大量の義捐金や救援物資が集まり、ナイチンゲールら従軍看護婦が戦地に赴くことになった。集まった義捐金で作られた基金を運営管理したのも、義捐金を戦地に運んだのもタイムズ紙あるいはその関係者であった。

    このようにクリミア戦争における義捐金、救援物資の管理運営、後方医療サービスの改革にタイムズ紙は積極的に関与し、政府をも動かしたが、政府の方はタイムズ紙が告発した実態を調査するために、調査委員会を戦地に派遣した。政府の本音としては、タイムズ紙の告発が誇張であることを示すことでその信用を失墜する狙いもあったようだが、調査委員会の報告は、タイムズ紙の報道を正当化する結果に終わったに過ぎない。

  • タイムズと従軍記者の誕生

    タイムズ紙がクリミア戦争に際して政治を動かすほどの大きな影響力を及ぼしたことには、編集長以下多くの人々の活躍が与っているが、その中でもウィリアム・ハワード・ラッセルの存在は大きい。ラッセルはクリミア戦争の戦地に赴き、前線のナマの状況を銃後に向けて報道した従軍記者である。

    戦士と共に戦地に行き記録を残した人々は紀元前の昔から存在したが、新聞というメディア向けに戦場の記事を書き、新聞というメディアを通して戦争当事国の国民や政府を促し具体的な行動を取るに至らせたのは、クリミア戦争の時のタイムズ紙が最初である。その意味では、近代従軍記者の歴史はラッセルとともに始まると言えるだろう。

    実際のところ、イギリス軍の拙劣な軍事作戦や戦地の医療の惨状をラッセルがタイムズ紙を通じて明らかにしなかったならば、義捐金の募集も、ナイチンゲールらの看護婦派遣も、戦争の効率的遂行のための政府の組織改革も、実現しなかっただろうと言われているくらいだ。

    タイムズ紙はラッセル以外にも従軍記者を派遣し、前線の状況を読者に届けた。その後、多くの新聞は戦争が起こると従軍記者を派遣し、前線の報道で競い合うようになる。20世紀になると、第二次世界大戦やベトナム戦争などを見ると明らかな通り、戦争の記録と記憶の少なからぬ部分は従軍記者によって埋められてきた。ラッセルを筆頭に記者をクリミア戦争の戦地に派遣したタイムズ紙は、戦争報道の歴史においても大きな足跡を残したと言えるだろう。
     

タイムズと第一回ロンドン万博

  • 第一回ロンドン万博

    1851年、ロンドンで歴史上初めての万国博覧会が開催された。博覧会そのものは、これ以前にも開かれていたが、国際的なものではなく、国内の産業や技術の振興を目的とした産業博覧会として各地で開催されていた。歴史的にはイギリスよりもフランスの方が先行していた。フランス革命を経て、国家主導で産業を振興しようとの機運が盛り上がっていたものと思われる。フランスの産業博覧会の成功がイギリスにも伝わり、「イギリスでも」との声が高まった。さらに、やるならフランスの物真似ではなく、国際的な規模の博覧会にすることで本家フランスを超えてしまおうと、プライドの高いイギリス人らしく考えた。こうして万国博覧会の企画が急浮上し、ヴィクトリア女王の夫君アルバート殿下を王立委員会総裁に担ぎ出し、準備が始められたのは、開幕のわずか一年半前のことだった。

    第一回のロンドン万国博覧会で最も知られているのは、ジョゼフ・パクストン設計のクリスタル・パレス(水晶宮)だろう。各国の展示ブースを収容するためにハイドパークに建設された総ガラス張りの施設、博覧会のメイン会場である。この模型図が公表され、一般市民が初めて眼にしたのは「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」である。「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」は一貫して、万博計画に賛成の立場から報道した。

    タイムズ紙は博覧会の計画にどのようなスタンスを取ったのだろうか。パクストン案の前に、結果的に採用されなかった案が「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に発表されたのであるが、これにタイムズ紙が噛み付いたのだ。反対の理由は、博覧会会場がハイドパークであるという、主として場所に関わるものだった。
     

  • ロンドン万博会場計画案

    万博の会場計画に反対の声を挙げたタイムズ紙だが、最初から反対だったわけではない。万博計画が公表されたばかりの頃は、世界の国々の工業製品を展示するという趣旨に賛同していた。財界や政界から集まる寄付金に触れながら、たとえ少額でも多くの市民や商人からも寄付金を募ることによって博覧会を国民的な催事にしなければならないと、いかにも公共的精神に訴えかけ、イギリス国民の新聞であると自負するタイムズ紙らしい主張を展開している。(1850年1月28日)

    また、工業品を携えて海外から多数の人々が万博に参加することによって、顧客が奪われてしまうのではないかとの中小商店主たちの懸念に対しては、万博は商店主の営業機会を無くすというよりも、逆に刺激を与える機会になるに違いないと、これも、自由貿易を推進する立場のタイムズ紙らしい主張を展開している。(1850年5月6日)

    ところが、ハイドパークを万博会場とする計画であることが発表され、会場の建設計画が詳らかになるにつれ、タイムズ紙は反対の論陣を張るようになった。最初の記事が現れたのは6月下旬である。「来年計画されている博覧会がハイドパークのケンジントン方面を会場とすることに対しては、不満の声が大きくなり、繰り返し聞かれるようになってきたため、これを無視することはもはや不可能である。」との書き出しで始まる6月25日の記事は、計画の再考を要求している。

    万博会場をハイドパークとすることに、どうしてタイムズ紙は反対したのだろうか。

  • タイムズのハイドパーク会場案反対論

    ハイドパークを万博会場とする計画には議会でも反対の声が挙がっていたことが、タイムズ紙で報道されている。また、一般市民の反対意見がタイムズ紙に届けられ、投書欄に掲載されるようになった。反対の主な理由は、メイン会場の建設に際して公園の樹木を伐採することはないという政府の説明に反して、樹木を伐採する方向で計画が進んでいるということだ。ハイドパークの住人と称する読者からの反対意見も掲載されている。

    これらの読者の声に押されるかのように、反対の声を挙げたのが6月25日の社説だ。

    「ブースが建設される公園の敷地だけが博覧会計画の影響を受けると考えるのは馬鹿げている。ハイドパークの全体が、我々の予想ではケンジントン・ガーデンの全体も、博覧会が開催される期間、ロンドン中の浮浪者の溜り場と化すであろう。女王の戴冠式の期間中及びその直後にハイド―パークが人々に見せつけた光景を誰も忘れてはいまい。芝生が踏み躙られ、公園全体が喧騒の場所と化し、あらゆる類の悪臭がただよい我々を襲ったことを。戴冠式との相違は、今回はこのひどい光景が数日ではなく数ヵ月続くことだ。ハイドパークは外観を損ない、修復するのに数年を要するだろう。」

    さらに公園周辺住民が迷惑を蒙るため、郊外に転居するかも知れないことを挙げながら、博覧会会場の変更を主張するタイムズ紙は、まさにロンドン市民の立場から声を挙げたと言える。二日後の6月27日の社説でも会場変更論を展開し、物資の輸送や人の移動を考えれば水路沿いの会場を選ぶべきだとして、変更先としてロンドン南西部のバタシーを提案している。
     

  • タイムズの豹変

    第一回ロンドン万国博覧会は1851年5月1日開幕した。開幕した場所は、当初の予定通りハイドパークだった。タイムズ紙の反対にも関わらず、ハイドパーク会場案は最後まで覆ることがなかった。イギリス第一の新聞と自他ともに認め、政治家から恐れられ、政府を動かすほどの力を持っていたタイムズ紙も、この時ばかりは負けたようである。翌日5月2日の社説で万博開幕を取り上げている。「昨日目撃した光景はかつて経験したことがなく、将来再び眼にすることがないような空前絶後のものだった。」で始まる文章は、世界各国から数多くの技術の粋が集められている壮観さ、これらを収容するパビリオンの大聖堂を凌ぐ大きさに驚きの声を発し、巨大な建築物も、多数の来場者も、多数の展示物も、準備した人々の労苦なしに可能でなかったと、企画立案し開幕に漕ぎ着けた主催者に敬意を表し、次のように結んでいる。

    「最も過小評価しても本博覧会は、異なる地域や異なる国民の工業品や生産物から学ぶことができる機会である。教育に携わる者だけでなく、知識を得たいと希望する者は誰でも、単に読んだり聞いたりするだけではだめだということを知っている。耳は知識を受け入れるのが遅く、失うのが早い。眼は理解が早く、見たものは眼に長く焼きつく。博覧会場では、他のものがなくても、大量の標本をこれらに関する手引きともども眼にすることができる。あらゆる自然と工芸の産物が我々の閲覧に供されるよう、ここに持ち込まれ、20エーカーの会場エリアは、さながら世界の縮図である。産業と社会の地理を学習する機会としてだけ見ても、計り知れない価値を持っている。だが、この種の知識に関して、大人が子供に劣らず欠落しているのはよくあることだ。それゆえ、あらゆる世代の人々は、ハイドパークで学ぶことが自分のためになると理解するに違いない。」

    あれほどハイドパークでの開催に反対していたのが嘘のような豹変ぶりである。浮浪者と悪臭のただよう喧騒の場所になるはずだと言っていたハイドパークが産業と社会の地理を学習する場に高められている。だが、この宗旨替えは、おそらくは世論の動向を見据えた上でのものだったに違いない。第一回ロンドン博が開かれた頃、タイムズ紙は政治と社会に大きな影響を及ぼし二百数十年の歴史の中で絶頂期を迎えていた。万博会場を巡る一件は、その時にあっても、タイムズ紙が世論の動向を見失うことがあった興味深い事例と言えよう。
     

  • クリスタル・パレス焼失

    クリスタル・パレスは万博閉会後、ロンドン郊外のシデナムに移設され長く観光地として親しまれてきた。だが現在、クリスタル・パレスを見ることはできない。火事で焼失してしまったのである。1936年11月30日。タイムズ紙は翌日の社説「クリスタル・パレス焼失」で、大英帝国の栄光を記憶する建築物の喪失を悲しんだ。

    「賞賛とともに嘲笑を浴びる建築物の常として、クリスタル・パレスも反対の声を受けながらも今日に至るまで生き延びてきた。時間が経過するにつれ、そしてパクストンが万国博覧会という空前の事業を収容するためにハイドパークに打ち建てた時に帯びていた目的と光彩の記憶が薄れるにつれ、クリスタル・パレスはイギリスを象徴する歴史的建築物の性格を獲得するようになった。・・・・・クリスタル・パレスの破壊は大切にしてきた歴史的ドキュメントの破壊のようだ。」

    クリスタル・パレスが人々の眼の前に現れた1851年、イギリスは繁栄と栄光の頂点にあった。イギリスを代表するタイムズ紙もこの頃、新聞としては最も影響力を持っていた。それから約八十年後、イギリスは徐々に衰退の下降線を辿り、超大国の地位をアメリカに譲り渡しつつあった。タイムズ紙も同様だ。依然としてイギリス筆頭の新聞との名声は維持していても、購読者数や世論に対する影響力の点で言えば、昔日の面影はない。クリスタル・パレスの焼失は大英帝国の没落を象徴するとともに、タイムズ紙には、過去の栄光をもはや取り戻せない現在の自らの姿と二重写しになって見えたのかも知れない。

タイムズと普仏戦争

  • タイムズと策士ビスマルク

    1870年、プロイセンとフランスの間で戦争が勃発する。当時ドイツは未統一で、王国や公国の連合体だった。その中のリーダー格のプロイセンが、軍事力を背景にオーストリア等の近隣国家との戦争に勝利を収め、いよいよ大国フランスとの一戦に及んだのが普仏戦争だ。プロイセンを率いるのは鉄血宰相ビスマルク、フランスを率いるのは大ナポレオンの甥のナポレオン三世。ヨーロッパの二大国の対決は、プロイセンの圧倒的勝利に終わり、これを機にドイツは悲願の統一を果たし(ドイツ帝国)、プロイセン国王ヴィルヘルム一世が敗戦国フランスのヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝に即位したことは、よく知られているだろう。

    ビスマルクは、この戦争を遂行するに当たっては超大国イギリスの世論を味方に付けることが必要であると考えていた。そこで駐英大使ベルンシュトルフにある秘策の実行を命じた。ベルンシュトルフの命令で、部下のクラウゼ男爵がある文書を携えてタイムズ紙の主筆ディレーンを訪問したのが、開戦一週間後の7月24日だ。クラウゼがディレーンに見せたのはプロイセンとフランスの間で数年前に交わされた密約だった。そこでは南北ドイツの統一連邦をフランスが承認するのと引き換えにプロイセンは、フランスがベルギーを征服した場合にそれを支持するとされていた。クラウゼが携えたベルンシュトルフのディレーン宛手紙には、「(本文書は)イギリス国民がこの上ない利害関心を有するものですが、文書の信憑性は保証します。」と書かれていた。

    翌日7月25日のタイムズ紙にこの文書が原文のフランス語のまま掲載された。この記事がもたらした衝撃は甚大なものだった。ビスマルクの思い通りの展開になったのである。そもそも普仏戦争の発端はビスマルクによるフランス大使の電報改竄(=エムス電報事件)にあったわけだが、ここでもビスマルクの策謀の才能は遺憾なく発揮された。さすがのタイムズ紙も、この度は策士ビスマルクの筋書きの中で演じる役者にすぎなかったようであるが、ビスマルクがタイムズ紙を役者に起用したことは、やはりその影響力の巨大さを証明していると言えるだろう。

  • タイムズと普仏戦争

    タイムズ紙に独占的に掲載されたベルギーを巡る普仏間の密約は、イギリス内外に大きな反響をもたらした。ベルギーは1839年の条約の下で国際的に中立を保障されていた。先進工業国イギリスにとってベルギーは鉄道を敷設するための重要な国である。そのベルギーがフランス支配下に置かれることは国益に反する。

    タイムズ紙の記事はその信憑性も疑われたようだ。議会でも取り上げられた。当然のことながら、フランスのメディアはこれを否定しようと最大限の努力を払った。ところが、驚くべきことに、当のタイムズ紙にフランス首相オリヴィエの書簡が掲載され、記事の信憑性を真っ向から否定したのである。この書簡がタイムズ紙に掲載された経緯は不明だが、どうやら主筆ディレーンに無断で掲載されたらしい。

    疑う声も多かった文書であるが、その信憑性は次第に確かなものと考えられるようになった。イギリス国内では、議会の内外で高まる声に押されるような形で、政府は交戦中のプロイセンとフランス両国とベルギーを巡る交渉を開始し、ベルギーの中立維持を貫いた。

    それにしても、タイムズ紙の歴史を振り返ると、平時もさることながら戦時にそのプレゼンスが高まることに気付く。普仏戦争以前ではクリミア戦争が有名だが、普仏戦争以後も幾つか例を挙げることは出来る。普仏戦争は、タイムズ紙が歴史の表舞台に登場した戦争の一つとして記憶されるだろう。

タイムズと世界一周旅行

  • トマス・クックの世界周遊記

    商品と金と人が地球規模で動くグローバル化の時代。人の移動の理由は様々あるが、観光も大きな要因の一つだ。二十一世紀は観光の時代だと言う人もいる。観光の時代の起源を辿れば十九世紀に辿り着く。産業革命を経て、鉄道や船舶などの交通手段が発展した十九世紀は人々が観光旅行を発見した時代だった。

    観光旅行に欠かせないのが旅行代理店。世界最初の旅行代理店は、もちろんトーマス・クック社。鉄道時刻表でも有名だ。トーマス・クックが団体旅行を企画したのが1841年。十年後の1851年にロンドンで開催された万国博覧会を見学した人々の中には、クックの団体旅行を利用した人も多かっただろう。

    国内だけでは飽き足らず、ヨーロッパ大陸や中近東への海外団体旅行も手掛けるようになったクックが、その先に世界一周旅行の企画を構想したとしても不思議ではない。大型汽船による世界初の世界一周旅行にはクック自身が添乗し、途中日本に立ち寄ったことはよく知られている。

    この旅行中、クックはタイムズ紙に旅行の経過報告を送っていた。その報告に基づく「世界一周(Round the World)」との記事が1873年の1月から3月にかけて4回に分けてタイムズ紙に掲載されている。タイムズ紙の読者は世界初の世界一周旅行を紙上で追体験することで、海外への思いを募らせたことだろう。

    クックの世界一周旅行は、出発前に「90日で世界一周」との触れ込みでタイムズ紙に広告が掲載されたが、実際は220日ほどかかったようだ。ところで、クックが世界一周旅行を企画した1872年に、もう一つの世界一周旅行があった。こちらはフランス発。もっとも、こちらの方はフィクションである。ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』だ。この時代、人々の眼は外国に向かい、世界はグローバル化しつつあった。
     

タイムズの特派員たち

  • ハルツームのタイムズ特派員

    ゴードン将軍と言えば、ヴィクトリア朝のイギリスで大衆的人気を博した軍人である。その人気の高さは、中国の太平天国の乱を鎮圧した軍功もさることながら、アフリカのスーダンでの悲劇的最期も大いに与っているだろう。

    イギリスの実質的支配下にあったエジプトでは、1880年代に反英運動が起こった。南部のスーダンでは自らをマフディー(救世主)と名乗るイスラーム教徒の一派がイギリスに聖戦を仕掛けた。時のイギリス首相グラッドストンは、帝国主義的侵略に反対する自由主義者であり、当初この反英闘争に対してスーダン放棄の方針で応じようとし、撤退の指揮に当たらせるためにゴードンを現地に派遣した。ところが、ゴードンは反乱軍に包囲され、世論の声に押されて派遣された救援軍がついに到着した。だが、救援軍到着の二日前にゴードンは反乱軍に殺害されていた。

    エジプト人部隊を率いるゴードンがスーダンのハルツームで反乱軍と対峙していた時、ゴードンの元には二人のイギリス人しかいなかった。一人は部下のステュワート中佐、もう一人はタイムズ紙特派員のフランク・パワーズだ。パワーズはゴードンの信任厚く、特派員の身分でありながらハルツーム領事の任務も委ねられた。反乱軍と対峙する中で、パワーズは前線の状況をタイムズ社に送り続けた。最初は電信で送っていたが、反乱軍に通信を切断されると、使者を別の土地に送り、そこからロンドンに電信で送るよう手配したと言う。ゴードン軍が窮地に陥り、救援軍を求めていることがイギリスに伝わったのも、タイムズ紙に掲載されたパワーズのメッセージが最初だった。パワーズのメッセージは救援軍派遣の世論を盛り上げるのに大いに貢献したようだ。明らかにパワーズは、「従軍記者の父」ウィリアム・ラッセルに始まるタイムズ紙従軍報道の精神を継承していたと言えるだろう。

    パワーズは、窮地を打開するためにステュワート中佐とともにハルツーム脱出を試みた。だが、二人とも反乱軍に殺害されてしまった。ゴードンがハルツームで死ぬ四ヶ月前のことだ。

  • 北京特派員ジョージ・アーネスト・モリソン

    明治維新後近代国家としての歩みを始めた日本は、富国強兵政策の下、国力を増強していった。日清戦争で勝ちを収めると、列強の一国として大陸の権益を巡る争いに積極的に参加していった。日清戦争で獲得した遼東半島を独仏露の三国干渉で放棄した後、朝鮮半島及び満州の権益を巡ってロシアとの対立が表面化し、遂に日露戦争に至り、辛くもロシアに勝ち、講和会議に持ち込んだことはよく知られているだろう。また、世界最大の陸軍国ロシアとの戦争に踏み込むことができたのも、日露戦争の二年前にはイギリスと同盟を結び、世界各地でロシアと対峙していたイギリスの後押しを受けていたから、ということも良く知られているだろう。

    それでも、イギリスが日本と同盟を結び、日露戦争に際して日本の後押しをするに至った歴史にタイムズ紙が果たした寄与については、どれだけ知られているだろうか。19世紀末から20世紀初頭にかけてのタイムズ紙の親日的報道については、一人の特派員の果たした役割が大きい。ジョージ・アーネスト・モリソン。オーストラリア出身のモリソンはイギリスで医学を学んだが、元々ジャーナリストになる夢を抱いていた。旅行家でもあり、世界各地を旅行し、紀行文を新聞等に発表していた。出版した旅行記がタイムズ紙の記者に注目され、タイムズ紙北京特派員の職を得たのが1897年、日清戦争の二年後のことだ。以後、モリソンは北京にあって、義和団の乱、日英同盟、日露戦争と続く世紀転換期の激動の東アジアに関する記事をロンドンに送り続けた。幾多のスクープを含むその記事は、モリソンしか知りえない情報源に基づくものが多く、タイムズ紙の東アジア報道は一頭地を抜いていた。

    勿論、モリソン及びタイムズ紙の報道はイギリスの国益に基づいていたわけだが、この時期のタイムズ紙は国益に忠実な新聞という受動的な立場にあったのではなく、特派員が時に外交官の役割を演じ、新聞が世論を動かしながら、国の政策を一定の方向に導いていた。タイムズ紙を「日英同盟のゴッドファーザー」と呼んだ同時代人もいたほどだ。
     

  • モリソンと義和団の乱

    モリソンの親日反露報道を象徴する記事が、20世紀の初め、1901年1月3日にタイムズ紙に掲載された。「露清満州協定」という見出しのこの記事は「満州南部の重要都市、瀋陽をロシアが軍事占領し、行政をロシアの保護下に置くことに関する協定がロシアと清国の間で調印された。」との書き出しで始まり、協定の九条項を列挙している。ロシアによる満州保護領化へ向けた布石として調印されたこの協定は、モリソンによってすっぱ抜かれ、タイムズ紙のスクープ記事は世界をあっと言わせた。日本の抗議に遭い、結局ロシアは協定の破棄を迫られる。東アジア近現代史の中で、新聞のスクープ記事が政治外交に影響を与えた例の一つである。

    モリソンがこのようなスクープ記事を出すことができたのは、ひとえにその人脈の豊かさに因る。北京のモリソン邸には、ジャーナリスト、外交官、官吏その他大勢の人々が、モリソンに情報を提供し、またモリソンから他では得られない情報を得ようと、ひっきりなしに訪問していたという。

    モリソンを語る際に欠かせないのは1900年の義和団の乱である。中国社会へのキリスト教の浸透に反対する局地的な排外的運動として始まった義和団の乱は、6月に清朝が列強諸国に宣戦布告するに及び、清朝と列強諸国の戦争の性格を帯びるようになった。その中で、北京の公使館街が清朝軍に包囲され、多数の外国人が8月まで2ヵ月間籠城を余儀なくされるようになった。その中にモリソンがいたのである。この時、同じく籠城した日本人との間に友情が生まれたとも言われている。

    モリソンはこの籠城の経験を記事にしてタイムズ紙に掲載した。10月13日と15日の「北京公使館街の包囲」という長文記事である。位置関係がわかるよう公使館街の平面図も掲載したこの記事は、籠城を実体験した特派員による記事という点で歴史的な価値を持つ。
     

  • 外交官としてのタイムズ特派員

    北京特派員モリソンの記事は義和団の乱後の英国世論を親日的にすることに大いに寄与し、そのことで日英同盟から日露戦争後に至る日英外交関係の蜜月時代を作り出すのに、ジャーナリズムの側から貢献した。

    とは言え、タイムズ紙の中で一人モリソンだけが、親日世論形成の功労者であったわけではない。当時のタイムズ紙外報部長ヴァレンティン・チロールも、新興国日本と同盟することが一触即発の極東におけるイギリスの国益に合致していることを社説で説き続けた。チロールは外務省出身で、政治家との太いパイプを持ち、駐英日本大使林董(はやし・ただす)とも懇意であった。

    日露戦争終結後、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれたが、アメリカで開かれたのはローズベルト大統領が日露講和の仲介役を演じたからである。このローズベルト大統領が、日露戦争の最中にチロールをワシントンに招待したのだ。二人はチロールが外務省の官僚だった頃、一度会ったことがある仲だった。大統領がチロールを招待したのは、日露講和に向けた国際世論の醸成にタイムズ紙の力を借りたかったからである。

    タイムズ紙はローズベルトの期待にはあまり応えることはできなかったようだ。だが、アメリカ合衆国大統領が新聞社の外報部長を招いて国際世論の醸成について依頼をするようなシーンは、現在では見かけることはできないだろう。

    昔のタイムズ紙の外国特派員や編集者の行動をつぶさに見てゆくと、現在と異なることに気付く。彼らが時に、現在で言えば外交官の役割を演じているということだ。これはタイムズ紙に限らず、他の新聞でも程度の差はあれ同じだったろう。だが、タイムズ紙は他紙を大きく凌いでいたと思われる。タイムズ紙の特派員は国益を担う外交官でもあったのだ。
     

映像の時代とタイムズ

  • 映像の時代を迎えた新聞

    19世紀末リュミエール兄弟が始めた映画は、20世紀になると文化だけでなく政治の世界をも巻き込み、巨大な足跡を残すことになる。映像の20世紀の到来である。情報の伝達が文字中心だった時代には考えられないような作用が社会の様々な局面に及んだが、何よりも大きかったのは人間の感じ方であろう。画像や映像が増えてくると、人間は文字だけの世界を窮屈に感じるようになるらしい。現代人にとってパソコンは不可欠のツールだが、個々の操作を行なう時にすべて文字で命令をしなければならないとしたら、面倒なことこの上ない。その代り、ウィンドウ、メニュー、アイコン、ボタンという画像があるから、パソコンの操作が簡単にできる。

    新聞も同じである。紙面に文字がぎっしり詰め込まれていたら、誰も読みたくなくなるだろう。新聞を制作する人は、記事のクオリティを高めることだけでなく、記事の配列を工夫したり、画像や写真を入れたり、文字のフォントを読みやすいものにするなど、紙面のレイアウトやデザインにも知恵を絞っているのだ。だが、新聞がこのような工夫を凝らすようになったのは最初からではなく、文字だけの世界を窮屈だと感じる感性が登場する20世紀に入ってからのことだ。それまでの新聞は、現在の新聞とはレイアウトもデザインもかなり異なる。むしろ、確固としたレイアウトやデザインなるものがあるかどうかも疑わしい。どれでも良いので、19世紀以前の新聞を手に取って見てほしい。ページが縦長の列(コラムと言う)に分割され、その中に文字がぎっしり詰まっている紙面が出てくるはずだ。

    新聞界も映像の到来に無縁ではなかった。そして、その動きを牽引する人物がイギリス新聞界に現れた。

  • タイムズ・ニュー・ローマン

    20世紀になり映画が人々の生活に入り込み、文字だけの世界を窮屈だと感じる感性が出始めた時、イギリス新聞界にもその感性を体現したような人物が現れた。デイリー・エクスプレス紙の編集者アーサー・クリスチアンセンである。クリスチアンセンはレイアウトとデザインこそが新聞が成功するための鍵であるとの信念の下に、普通の読者が平易に読めるリーダブルな新聞作りを追求した。文字のサイズを大きくし、眼に優しいフォントに変え、バナー状の大見出しを多用し、見出し語は短く、大きく、大胆にして読者の関心を引くことを心掛けた。

    クリスチアンセンが導入したレイアウトとデザインは、イギリス新聞界に革命的と言ってもよい影響を及ぼした。他紙もデイリー・エクスプレス紙に追随し、紙面のレイアウトの改革を行なった。それまで一般的であったコラムに文字がぎっしり詰まったページは過去のものとなり、ページに白地が目立つようになった。新聞が、文字で情報を伝達する媒体だけでなく、読者の眼を受け止める画面でもあることを意識した瞬間だと言って良いかも知れない。

    タイムズ紙はこの流れにどう対応しただろうか。創刊後100年以上経過し、今やイギリス新聞界に君臨するタイムズ紙にとって、新しい動きに素早く反応するのは容易ではなかったようだ。読者のために腰を低くしてサービス精神を発揮することなど、新聞の王に相応しい態度ではない。タイムズ紙は、新しい動きを軽く受け流したのであろうか。

    そうではなかったようだ。タイムズ紙はここでも歴史に名前を残した。タイポグラフィーの世界で。現代人にもなじみのあるフォント、「タイムズ・ニュー・ローマン」と呼ばれる新しい文字の型を生み出したのだ。タイムズ紙によれば、このフォントは「男性的で英国的で真直ぐで簡素で、気紛れと軽薄から無縁であること」を表しているという。タイムズ紙は、フォントという新しい衣装にみずからの伝統の魂を込めたと言えないだろうか。

タイムズの報じた幕末明治の日本

  • 「迷信と技芸の国」日本

    タイムズ紙が創刊された1785年は、日本では江戸時代後期、老中田沼意次が幕政の改革を行なった田沼時代に相当する。イギリスから見れば、地球の裏側の極東の小国である上に、鎖国政策で国を閉ざしていたから、日本に関する記事があまり多くないのも当然だろう。とは言え、創刊の1785年にすでに日本に関する言及は見られる。スウェーデンとデンマークを取り上げた10月4日の記事だ。この記事は、世界の国々を成長途上の若々しい国と衰退する国に分け、日本を中国、インド、イスラーム教の国々らとともに、衰退する国に分類している。百年後であれば、日本に対する見方は異なったであろう。

     翌日の10月5日にはインドや中国とともに日本を紹介する小さな記事が掲載される。記事は冒頭からいきなり、「日本列島に我々が見出すものは、底知れぬ無知と迷信が機械工芸の大きな進歩と結びついていることである。」と、日本の特質の描写から始まる。啓蒙の世紀の只中にあるヨーロッパ人の眼から見れば、東洋人が無知と迷信の民に映ったであろうことは今では容易に想像がつくが、無知と迷信の民が同時に技芸を良くする民でもあることを記事は指摘し、「これが事実であれば、哲学的好奇心の対象である」と、好奇の眼差しが伺える。そして、「文明化された近隣諸国の中で日本が独立を維持することができるかどうか、国家としての性格を持つまでに成長するかどうかは、何とも言えない。」と、日本が不安定な地政学的環境に置かれていることを強調する。さらに、「山、岩、荒れ狂う海、地震、火山が日本に粗く乱れた外観を与えている。日本人は乱暴、粗暴で扱いにくい。」と、厳しい自然の下に置かれた日本という、現在にも通じる日本像がすでに提示される。

    「中国系の植民者が山間部により分断された列島の西側に定住した」というような事実に反する記述も見られる。この記事の情報の出所は分からないが、十八世紀後半のイギリスにおける日本観を示していて興味深い。タイムズ紙の日本に関する初めての記事としての歴史的価値を持つ。
     

  • ゴロヴニンの『日本幽囚記』

    十九世紀になると日本近海には外国船が来航し、鎖国体制下の日本の沿岸地域に緊張が走る。長崎にはイギリス軍艦フェートン号が、北方からはロシアのレザノフが相次いで来航した。また、蝦夷にはロシアのゴロヴニン率いるディアナ号が通商を求めるために来航したが、松前藩に拿捕され、ゴロヴニン他乗組員は抑留された。いわゆるゴロヴニン事件である。ゴロヴニンは、解放された後、この時の体験をロシアで『日本幽囚記』として刊行した。

    ところでゴロヴニン事件の六年後、タイムズ紙に『日本幽囚記』を紹介する記事が掲載される。1817年12月23日の「日本」という記事だ。翌1818年1月22日には『日本幽囚記』からの抜粋が英訳されて掲載される。12月23日の記事は、「最近興味深い著作がペテルスブルク宮廷の認可を得て刊行された。ロシア軍艦の艦長によるこの著作は、二年以上に亘る日本での抑留の経験と観察を記録したものである。」という書き出しで始まり、これまでラ・ペルーズ、ブロートン、クルーゼンシュテルンらにより千島列島の調査探索が行なわれたが、いずれも不完全に終わったこと、ゴロヴニンの遠征により初めてこの地域の地理が明らかになったことにゴロヴニンの遠征の意義を見出している。そして、ゴロヴニンらが遠征に乗り出し、松前藩により抑留され、解放されるまでの経過を詳しく紹介している。

    当時のイギリスの新聞は、外国の情報は外国紙など国外の情報源に依存するのが普通であり、ゴロヴニンの著作の紹介もその慣習に基づくものだった。この記事は、タイムズ紙に掲載された日本に関する記事の中では、実際に日本を訪問した人物の見聞に基づいた最も早い時期のものである。
     

  • 日本の大地震の報道

    3月11日の地震により過去に日本を襲った地震が注目されるようになった。幕末から大正時代までに日本で発生した大地震は次の通りだ。

    1854年12月23日:安政東海地震
    1854年12月24日:安政南海地震
    1855年11月11日:安政江戸地震
    1891年10月28日:濃尾地震
    1896年6月15日:明治三陸地震
    1911年6月15日:喜界島地震
    1923年9月1日:関東大震災

    これらの地震をタイムズ紙はどう報道しただろうか。まず、安政三大地震と呼ばれる東海・南海・江戸地震については、東海地震だけを報じている。ほぼ一年後の1855年12月15日の記事だ。「日本の地震-通信員から」というこの記事は、下田でこの地震を体験したロシア軍艦ディアナ号の航海日誌を英訳して掲載したものだ。津波が数回にわたりディアナ号を襲い、混乱の中で乗組員が必死で対応する様子がほとんど十五分刻みで克明に記録されている。

    1891年の濃尾地震は発生の二日後の10月30日にロイター通信社からの横浜発の情報として「日本の恐るべき地震」という見出しで報道している。記事では、詳細は分からないとしながらも、大阪と神戸の被害が大きいと報じている。神戸に多くの外国人が居住していたことも原因の一つであろうが、この地震はタイムズ紙の大きな関心を引いたと見えて、新しい情報が入るたびに続報が出た。義捐金や支援物資に関する記事や正確な事実を伝えようとする日本の外交書記官からの投書も見られ、新聞における近代的な地震報道の原型を見ることが出来る。

    すでにこの頃には、記事の中に「地震と火山の国の日本」という表現が見られ、この地震が起きる四年前に設立された日本地震学会の設立についても、大きく紹介している。タイムズ紙の濃尾地震報道はイギリス人が日本と地震を結びつけることに大きな効果を及ぼしたに違いない。
     

  • 日本の地震学の父ジョン・ミルン

    濃尾地震の五年後に明治三陸地震が発生した。1896年6月15日。地震だけでなくその津波の被害が、吉村昭のルポなどによって今に至るまで語り継がれている地震だ。この地震の第一報がタイムズ紙に掲載されたのは7月6日、二十一日後だ。濃尾地震の時はロイター電としてすでに二日後に報道していたタイムズ紙だが、今回は遅い。この遅れの原因は分らない。

    しかも第一報は、新聞への投書である。投書は次のように言う。「電信によれば、6月17日に日本の東北の海岸で巨大な津波が発生し、2万7千人が犠牲になったとのことである。同じ日にヨーロッパで振動が記録された事実は確認できていないが、ヴィッチェンティー二教授の地震計が15日と16日にパドゥアでこの地震を震源とすると思われる地殻変動を記録することが出来た。日本からヨーロッパまで地殻の振動が伝わるのに約45分かかり、日本とイギリスの時差が9時間であるから、日本で地震が発生したのは6月15日の午後8時30分、16日の午前5時と午前9時と推定される。ここワイト島で最初に地震計が振れたのは日本時間6月15日午後8時である。保守作業で運用停止したため、翌日の振動の記録はない。」

    投書の主はイギリス南部のワイト島のジョン・ミルン。ミルンは、明治九年に来日し、日本の地震学の礎を築くにあたり大いに功績のあった人物である。1887年1月7日の「日本の地震学」というタイムズ紙の記事でも、「過去11年のあいだにイギリスの有能な地質学者や鉱山技師が来日し、日本の地質学を高いレベルに上げるのに大いに貢献した。」と報じ、特にミルンの名前を挙げて、「日本地震学会の創設者にして中心人物」と紹介している。ミルンは日本人と結婚し、明治三陸地震の発生する前年、英国に帰国し、ワイト島に住んでいたのである。

タイムズと幕末使節団

  • 幕末の遣米・遣欧使節団

    開国後、諸外国と通商条約を締結した江戸幕府は、条約締結の事後処理のために、二回に亘り欧米に使節団を派遣した。1860年(万延元年)の遣米使節団と1862年(文久二年)の遣欧使節団である。両使節団には福沢諭吉が加わったことが知られていよう。タイムズ紙は遣米使節団については1860年6月2日に、「日本人はついに国際社会との交流に向けて一歩を踏み出した。」との書き出しで始まる記事の中で詳しく取り上げている。外見から所持品まで、日本人に対する好奇の眼差しが行間から見えてくるようだ。日本人については、外見は中国人と似ているが、中国人と間違えられると怒り出すこと、日本語と中国語との違いを強調すること、さらに中国より日本の歴史の方が古いと説いていることなど、日本人が中国人との相違を欧米人に印象付けようとしていることを記事が指摘しているのは、この先の歴史を念頭に置けば興味深い。

    遣欧使節団の方はイギリスが訪問国の一つだったため、イギリス各紙は大きく取り上げた。中でもタイムズ紙の報道は、記事の数だけ見ても他紙を上回っていたと言われている。1862年4月4日を第一報として、4月7日、10日、11日、14日、15日、16日、22日、24日、28日、29日、5月2日、3日、6日、8日、9日、12日、14日、15日、16日、17日、19日、20日、21日、26日、28日、29日、30日、31日、6月3日、9日、11日、13日、14日と、4月上旬から6月中旬にかけて、ほぼ2日に1回の割合で報じている。さらに、使節団の行程を辿ると、フランス経由でイギリスに到着したのが4月30日、イギリスを離れオランダに向かうのが6月12日である。タイムズ紙は使節団がイギリスに到着する前、フランスに滞在していた頃から、その動向を紹介していたのだ。関心の高さが伺える。
     

  • 万博会場の日本使節団

    タイムズ紙が遣欧使節団を大きく報道したのは、数年前に開国したばかりの日本から遠くイギリスへ派遣される使節団への関心が高かったのは言うまでもないが、使節団がイギリスを訪問したのと同じ頃イギリスで大きな行事が開かれていたことも大きかったであろう。万国博覧会である。クリスタル・パレスで有名な1851年の第一回万国博覧会に続く、ロンドンで開催された二回目の万国博覧会である。この後日本はパリ、ウィーン、シカゴなど万国博覧会に出展し、日本の技芸や文化に対する欧米人の関心を高めたことはよく知られている。

    1862年の博覧会は日本人が経験した初めての万国博覧会という歴史的意義を持つ。因みに、”Exhibition” に「博覧会」という日本語を当てたのは使節団の一員、福沢諭吉である。

    万国博覧会の開幕は5月1日、使節団がイギリスに到着した翌日だ。日本使節団は開幕初日に博覧会場に足を運んだ。開会式に各国使節団が招待されたためだ。開幕を報じる2日のタイムズ紙の記事では、「会場ではハイチ使節団と日本使節団が人々の一番大きな注目を浴びた。とりわけ、入念に武器を身に着けている日本使節団一行は、他国の使節団と際立った相違を見せていた。彼らの礼法に則ったやり方であることを認めるにしても、平和の祭典の場にあってどこか場違いな印象を与えていた。」と、刀を帯びる日本使節団一行の特異な姿が与える印象を伝えている。おそらくこれは、万博会場のイギリス人の多くが抱いた感覚を代弁したのだろう。ほとんどのイギリス人はこの時、日本人を初めて直に眼にした。その意味で、この記事は短いながらも、普通のイギリス人による日本人との初めての出会いを証言するものである。

  • 使節団の各地訪問

    日本使節団に関するタイムズ紙の記事を追ってみる。

    5月3日(土)-

    使節団は昨日、外務省にラッセル外務大臣を表敬訪問。将軍の書簡を女王へ渡したことを外相が使節団に伝達。万博の開会式への招待に対して使節団が外相に謝意。外務省を辞し宿舎に戻ると、使節団の要請通り旗が掲げられていた。白地に朝日を意味する赤い円が描かれている日本の国旗だ。使節団は36人。訪欧の目的は開国に伴う港の開港を漸進的なものにすることを

    諸外国に要請すること。イギリスには約一ヶ月滞在予定。

    5月6日(火)-

    土曜日はストランド街の時計職人を訪問、時計を購入。日曜日の午後は動物園を訪問。月曜日は午前中、銃製造業者を訪問。強い関心を示す。機械に対する関心は強く、飽くことなく展示品を見ていた。午後、下院と上院を訪問。上院の壮麗な建築には特に驚嘆した模様。英和辞書を携行、英語の理解に努める随員も多い。英国の生活に適応し、イギリス紳士とほとんど変わらない。

    5月8日(木)-

    昨日は列車でロンドンを離れウリッジの造兵廠と駐屯地を訪問。駅から造兵廠までの沿道で多数の住民が歓迎。冷静沈着で抑制された一行の佇まいは、行く先々で人々に尊敬の念を呼び起こした。一行の中にメモに取る二人の人物がいた。速記術のように驚くべき速さで眼に入るものを書き止め、感想を記し、将来のために役立てようとしていた。

    5月9日(金)-

    使節団の中の5人の医師がキングズ・カレッジ病院を訪問。病院内の薬局では長い時間を費やす。特に錠剤を作る機械には驚いた模様。患者や食事を運ぶための水力リフトには大きな関心を持った模様。同病院は外国人の訪問を受けた最初の病院との名誉を得ることになった。

国民的新聞としてのタイムズ

  • 高級紙と大衆紙

    タイムズ紙はイギリス新聞界の中でどのような位置を占めているのだろうか。

    イギリスだけでなくヨーロッパでは新聞について「高級紙」「大衆紙」という言葉が使われる。高級紙とは、政治家、企業の管理職、ジャーナリスト、大学職員、知識人等、社会の指導的立場の人々を読者対象とする新聞で、政治、経済、社会、文化を扱う記事を中心に構成され、見出しなど紙面構成も地味なものが普通だ。クオリティ・ペーパーと呼ぶ場合もある。これに対して大衆紙は、一般庶民を読者とする新聞で、事件、スポーツ、芸能に関する記事が多く、派手な紙面構成を特徴とする。社会階層が明確に分かれているヨーロッパでは高級紙と大衆紙が明確に分かれている。

    ヨーロッパの高級紙としては、タイムズ(英)、ガーディアン(英)、テレグラフ(英)、インディペンデント(英)、フィナンシャル・タイムズ(英)、ル・モンド(仏)、リベラシオン(仏)、フィガロ(仏)、フランクフルター・アルゲマイネ(独)、ジュートドイチェ・ツァイトゥング(独)が有名だ。

    大衆紙としては、サン(英)、デイリー・ミラー(英)、デイリー・メール(英)、パリジャン(仏)、ビルト(独)が有名だ。

    タイムズ紙は社会の指導的立場の人々を読者層とするヨーロッパの高級紙の中でも最も歴史の長く、ヨーロッパの高級紙を代表する新聞である。

  • 読者の鏡としての新聞

    新聞の役割と言えば、誰でもニュースや情報を読者に伝えることを挙げるだろう。だが、情報の伝達だけが新聞の役割かと言うと、必ずしもそうではないようだ。

    オリンピックやワールドカップで日本選手が金メダルを取れば、スポーツ面だけでなく一面にも大きな写真入りで記事が掲載されることは珍しくない。社会面でも歓喜に沸く日本各地の様子が紹介されるだろう。この時、新聞を読む多くの読者は日本人として喜んでいるに違いない。また、地方紙ではその地方に関わることが特に大きく取り上げられる。この時、読者は自分がその地方の人であることを実感するに違いない。このように新聞には、情報を伝達する役割の他に、特定の国民、地域、集団、一言でいえばコミュニティの一員であることを読者に認識させる機能もある。

    ここに過去の新聞を研究する価値があるのだ。現代の朝日新聞や読売新聞は現代日本人の意識を知る上で不可欠の材料であり、日刊ゲンダイや夕刊フジは現代日本の男性サラリーマンの意識と生態を後世の歴史家が研究する際に欠かせない歴史資料となるはずだ。

    そしてタイムズ紙はイギリス国民を知る上での格好の媒体なのである。十八世紀後半に創刊されたタイムズ紙は十九世紀になると最大の読者を得ることによって、押しも押されもせぬイギリスを代表する新聞の地位を獲得した。いつの時代でも新聞は読者の意識や願望を映し出す鏡である。十九世紀のイギリス人、特に中産階級の人々が何を考え、何を望み、何に熱狂し、何に憤慨したのか、これらのことを知る上でタイムズ紙は最高の歴史資料なのである。

  • イギリスの国民的新聞

    人の心は見えない。見えない心を探るために心理学では人の行動から心を類推する方法を取る。これが過去の人となると、過去の人に会うことは出来ないわけだから、行動から心を類推することは出来ない。では過去の人の心を知ることはできないのだろうか。その人が日記や手記を残していれば可能だろう。では特定の個人の心ではなく、集団をなす人々や国民の心はどうだろう。

    国民的作家という言葉がある。その国民の多くによって愛読されている作家という意味だ。多くの国民によって愛読されている理由を探るのは容易ではないが、その作家が多くの国民が望んでいること、無意識にこうありたいという願望を物語化しているから、国民的作家と呼ばれるのだろう。国民的作家以外にも国民的歌手、国民的歌謡曲、国民的スポーツ、国民的アイドルなど、「国民的」と付く名称はいろいろある。これらはすべてその国民の無意識の願望を映し出す鏡である。後世の歴史家がその国民を研究する場合、国民的作家、国民的歌手は格好の歴史資料となるに違いない。

    国民的新聞も同じだ。日本の国民的新聞は何だろうか。購読者数の多さから言えば読売新聞だが、読売新聞を国民的新聞と呼べるかどうかは、意見が分かれるだろう。

    だが、国によっては国民的新聞と呼ぶことができる新聞が紛れもなく存在する。その国民の足跡がそのまま記事の隅々にまで映し出されている新聞。その国民の喜怒哀楽の様相を知りたい外国人が最初に手に取るべき新聞。タイムズ紙はまさに、このような意味でのイギリスの国民的新聞である。後世の歴史家がイギリス国民を研究する場合、イギリス国民の喜怒哀楽を映し出す鏡として格好の材料を提供してくれる。