FBI File on Owen Lattimore
1900年にワシントンD.C.で生まれたオーウェン・ラティモア(Owen Lattimore)は父親の仕事の関係で幼少期を中国で過ごしました。スイスとイギリスで教育を受けた後、中国に戻り、実業に従事した後、中国の辺境地域を旅行したことにより、中国に対する学問的関心を抱くようになります。処女作『西域への砂漠の道(Desert Road to Turkestan)』はトルキスタン地域への実地踏査の成果として公刊したもので、これにより中国と中央アジアの専門家として認められるようになります。1933年には太平洋問題調査会に加わり、機関誌『パシフィック・アフェアーズ(Pacific Affairs)』の編集長を1941年まで務めます。1938年にはジョンズ・ホプキンス大学に職を得ました。その間、『中国の内陸アジアの辺境(Inner Asian Frontiers of China)』、『モンゴル旅行記(Mongol Journeys)』、『満州:紛争の揺籃(Manchuria: Cradle of Conflict)』、『満州の蒙古民族(The Mongols of Manchuria)』等の著作を公刊しました。
アカデミズムの世界だけでなく、中国問題の専門家として政治にも関わりを持ったラティモアは、1941年にルーズベルト大統領により蒋介石の特別政治顧問に任命され、戦争情報局では太平洋作戦部長を務めました。第二次大戦が終結する1945年に公刊した『アジアの解決(Solution in Asia)』では、国民党政権から腐敗した高官を追放し、民主的改革を断行することを蒋介石に促し、国民党と共産党の歩み寄りに反対し、無条件に蒋介石を支持する米国内のいわゆるチャイナ・ロビー派の人々から警戒されました。
国共内戦が共産党の勝利に終わった結果、中国を「喪失」したアメリカでは、中国問題の専門家であるラティモアは微妙な立場に立たされます。1950年代の赤狩り旋風が巻き起こると、ラティモアは「ソ連のスパイ」「共産党のシンパ」と告発され、窮地に立たされます。上院委員会での厳しい追及をかわしたものの、司法省からは偽証罪で告発を受けます。司法省が最終的にラティモアに対する告発を取り下げたのは1955年です。ラティモアは1950年代前半の大半を赤狩りとの闘いに費やしました。
このような状況において、連邦捜査局(FBI)はラティモアを監視対象に置き、盗聴や郵便の開封を行なっていました。本コレクションは、FBI図書館が所蔵するラティモア関係文書を提供します。
(マイクロ版タイトル:FBI File on Owen Lattimore)
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