Bulgaria: Records of the U.S. Department of State Relating to Internal Affairs, 1945-1954
本コレクションは、米国国務省在外公館の外交官が国務省と交わしたブルガリアの政治、経済、社会、軍事動向に関する往復書簡です。往復書簡の他に、国務省スタッフが用意した報告書や覚書、国務省と外国政府との交信記録、国務省以外の省庁、民間企業、個人との往復書簡も収録されています。
米国は第二次大戦後の1947年にドナルド・ヒース(Donald R. Heath)が公使として赴任しますが、1950年ブルガリア政府がヒースを「好ましからざる人物」と宣言したため、外交関係が中断、ヒース以下の公使館員は退去します。外交関係の中断は1959年まで続きました。本コレクションは、1945年から1954年までの文書を収録しますが、外交関係が中断していた時代は、ベオグラード、イスタンブール、ロンドン、パリ等、ブルガリア国外から発信された文書を収録します。
第二次大戦後、ブルガリアでは1948年までに共産党の一党独裁体制が確立しました。共産党は最も重要な省庁を掌握し、1923年以来亡命生活を送り、ドイツ国会議事堂放火事件後に開かれた1933年のライプチヒ裁判の英雄として国際的な名声を得ていたゲオルギ・ディミトロフ(Georgi Dimitrov)が1945年、亡命先のモスクワから帰国し、首相に就任します。翌年1946年の国民投票では93%の賛成票を得て、共和国を宣言、王制は廃止され、シメオン2世は国を離れます。10月27日に実施された選挙では、共産党系の祖国戦線(Fatherland Front)が70%の得票率を獲得します。共産党員は圧力、脅し、公開裁判を使い、対立する党派を屈服し、一党独裁体制の確立に成功します。
アメリカとイギリスは口先では抗議の姿勢を示したものの、新体制を承認します。共産党以外の政党は共産党に吸収されるか、解散して祖国戦線に吸収され、政党ではない民間の団体として再出発するか、選択を迫られました。新たに採択された1947年のいわゆる「ディミトロフ憲法」は1936年のスターリン憲法を模範としたものです。
1948年までにブルガリアの産業の98%は国有化されました。国有化は重化学工業に重点を置く工業化と電力化と歩調を合わせて実施され、国家投資の50%が工業に投下されました。その反面で、農村は省みられず、農業への投資は国家投資のわずか10%に過ぎませんでした。土地は集団化が推進され、1956年までに80%の農地が集団農場として再編されます。過度の工業化と農業集団化により、都市と農村の人口比率は劇的に変化し、1946年に25%だった都市人口は1965年までにその倍の50%に急増します。
政治の世界では、1949年までにあらゆる宗教制度は国家の監督の下に置かれるようになります。共産党内では粛清が進み、公開裁判によって幹部のトライチョ・コストフが処刑されます。1949年にディミトロフが死去すると、ヴルコ・チェルヴェンコフ(Vulko Chervenkov)が実権を握り、1950年には党書記長と首相を兼任し、ソ連をモデルに、公共生活の隅々まで抑圧的な支配装置の網を張り巡りました。1954年には党書記長の座をトドル・ジフコフ(Todor Zhivkov)に譲り、以後、1989年の東欧革命までジフコフ指導体制が続きます。
【以下の2部から構成されます】
- Bulgaria: Records of the U.S. Department of State Relating to Internal Affairs, 1945-1949
ブルガリア関係 米国務省文書集 1945-1949年 - Bulgaria: Records of the U.S. Department of State Relating to Internal Affairs, 1950-1954
ブルガリア関係 米国務省文書集 1950-1954年
(マイクロ版タイトル:Records of the Department of State Relating to the Internal Affairs of Bulgaria, 1945-1949 / 1950-1954)
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- ヨーロッパ研究
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