FBI File: Alger Hiss/Whittaker Chambers
本コレクションは、アルジャー・ヒスとホイテッカー・チェンバーズを巡る連邦捜査局(FBI)文書を収録します。共産党員の経歴を有するとされた人物と共産党シンパの往復書簡、告発された人の関係者への聞き取り調査の記録を通して、初期冷戦時代の赤狩りの実情が明らかにされます。
1948年8月、『タイム』誌の編集長ホイテッカー・チェンバーズは、公聴会で証言するよう下院非米活動委員会(House Un-American Activities Committee, HUAC)から喚問されました。チェンバーズが喚問されたのは、エリザベス・ベントリー(Elizabeth T. Bentley)の証言の裏を取るためでした。エリザベス・ベントリーは、ソ連のスパイとして米国政府の情報をソ連に渡していましたが、1945年にFBIにスパイであったことを告白し、米国政府の役人が諜報活動を行なっていたことを暴露しました。FBIはベントリーの証言に基づき捜査を開始します。その後、議会がこの件を取り上げ、メディアに情報が漏洩されるにおよび、1948年頃には大統領選の最中の党派政治も絡んで、米国政府内におけるソ連スパイ事件は、全米の関心を集めるにいたりました。ベントリーの証言で名前の挙がったのがチェンバーズです。
公聴会でチェンバーズは1930年代に共産党の地下組織の一員だったことを認め、複数の米国政府役人もそのメンバーだったとして、アルジャー・ヒスの名前を挙げました。ヒスは、国務省の中堅幹部として、第二次大戦勃発直後から、後に国際連合に結実する戦後集団安全保障体制のグランドデザイン設計業務に携わり、ルーズベルト大統領に同行しヤルタ会談に出席し、国連憲章を採択した1945年8月のサンフランシスコ会議では事務局長として手腕を発揮するなど、1940年代の米国外交の中枢のポジションにありました。1947年に国務省を離れ、チェンバーズの証言が行われた当時は、カーネギー国際平和財団の理事長の職にありました。チェンバーズの証言を受け、ヒスは即座に否定しました。
チェンバーズは、ヒスの諜報活動やヒスとベントリーや共産党のグループの関係を立証する証拠を提出することはできませんでしたが、ニクソン下院議員ら、非米活動委員会のメンバーから迫られ、さらなる情報開示を行ないました。その後の証言でヒスは、1930年代にチェンバーズと知己の間柄であったことを認めましたが、諜報活動や共産党との関わりについては強く否定し続け、チェンバーズを名誉棄損で告発します。
チェンバーズの証言が正しいのか、ヒスの証言が正しいのか、調査が暗礁に乗り上げたかに見えた1948年末、重大な資料が現れます。1930年代にヒスから受け取ったとする国務省の文書を複製したマイクロフィルムをチェンバーズが非米活動委員会に提出したのです。チェンバーズの農場のかぼちゃの中に隠されていたため、「かぼちゃ文書(Pumpkin Papers)」と呼ばれるようになる文書には、国務省文書とヒスの手書のメモが含まれていました。諜報活動容疑に関しては時効により起訴は見送られたものの、この物的証拠によりヒスは偽証罪で起訴されました。
裁判では国務長官のディーン・アチソンらの政治家がヒスを弁護しましたが、ヒスは懲役5年に有罪判決を受け収監されました。しかし、ヒスは1996年に亡くなるまで無罪を主張し続けました。ヒスがソ連のスパイであったかどうかを巡っては、ソ連崩壊後に旧ソ連の諜報関係文書の公開により、調査が行われましたが、肯定する証拠も否定する証拠も得られず、今にいたるまで真相は闇の中です。
(マイクロ版タイトル:FBI File: Alger Hiss/Whittaker Chambers Collection)
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