FBI File: Huey Long
ルイジアナ州知事を務めた後、大恐慌の時代に上院議員としてルーズベルト大統領と対峙し、大統領のポストをも狙ったポピュリスト政治家ヒューイ・ロング(1893-1935)。大学で法律を学んだロングは地元ルイジアナ州で法律家としてそのキャリアを開始しました。州の鉄道委員会の委員に任命されたロングは、鉄道利用者のために鉄道会社を相手に闘い、庶民のための闘士との名声を獲得し、ついに州知事選に勝利します。南北戦争の時に連邦離脱に反対し、19世紀後半にはポピュリズムの運動を後押ししたルイジアナ州ウィンフィールドという南部の中でも特異な政治風土の中で育まれたロングは、他の南部政治家とは異なり、農場主や企業家ではなく、貧しい大衆のための政治を看板に掲げ、高速道建設、学校教科書の無償化、州立大学への助成、成人のための無償夜間学校、病院や公共施設の拡充等、大衆のための公共政策を矢継ぎ早に実施します。しかし、民主主義の手続を時に無視する政治手法は議会や伝統的な政治家との対立を招き、独裁者との烙印を押されるようになります。ロングが石油産業に課税する法案を議会に提出した時に対立はピークに達し、議会はロング弾劾に追い込みます。弾劾裁判でロングは辛くも無罪判決を勝ち取りますが、議員への贈賄疑惑の噂が根強く残りました。その後、ロングは国政への進出を試み、1930年に上院議員に選出されます。大恐慌の最中に上院議員になったロングは、課税を通してすべての市民の所得に制限をかける「富の共有(Share Our Wealth)」計画を発表し、全家計に対して5,000ドルの手当と毎年2,000ドルの所得を提供することをルーズベルト大統領に要求するなど、国政の場でも大衆のための急進的政策の推進に努めました。ロングは1936年の大統領選への出馬を狙っていましたが、1935年、政敵の近親者により暗殺され、42年の生涯を閉じました。
本コレクションは、ヒューイ・ロングに関する連邦捜査局(FBI)の文書を収録します。収録文書は、上院議員時代の1932年からロングの死後の1952年までの期間をカバーします。文書は不正選挙に関する報告、「富の共有」計画に関する書簡、1935年3月にロングが行なった「失政を繰り返す我が政府(Our Blundering Government)」というスピーチの全文とスピーチに関する文書、ルイジアナ州の政府高官や犯罪状況に関する捜査資料、ロング暗殺に関する捜査資料等を収録します。
(マイクロ版タイトル:FBI File on Huey Long)
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