Hungary: Records of the U.S. Department of State, 1945-1963
第二次大戦終結後、ハンガリーでは急進的な土地制度改革が断行され、半封建的社会経済制度は解体しました。人々は民主的な制度が始まると期待を寄せました。その一方で、休戦条約に盛り込まれた賠償支払義務は戦時中の破壊と相俟って、国民に重い負担を課しました。1945年11月に実施されたハンガリー史上初の自由選挙では小農業者党が勝利し、1946年2月には王政が廃止、共和政が敷かれ、小農業者党党首のゾルターン・ティルディ(Zoltán Tildy)が大統領に、同党のフェレンツ・ナジ(Ferenc Nagy)が首相に就任しました。しかしハンガリーを占領していたソ連は、占領軍の武力を背景に、共産党以外の政党を解党に追い込み、共産党に対立する人々を逮捕します。首相のナジは亡命に追い込まれ、1948年末までに共産党は実権を掌握しました。マーチャーシュ・ラーコシ(Mátyás Rákosi)率いる共産党はソ連型の制度と恐怖政治を導入します。農地は集団農場に再編され、重工業に重点的に投資する工業政策の下で、国民の生活水準は悪化しました。国家の政策を批判する声は封じ込められ、数十万人の人々が逮捕されました。1948年12月に始まった公開裁判では、共産党を批判したヨージェフ・ミンツェンティ枢機卿(József Mindszenty)や共産党内のラーコシのライバル、ラースロ・ライク(László Rajk)らが裁かれました。その後、1953年にスターリンが死去し、ソ連指導部の勢力図が変わると、その影響はハンガリーにも及びます。ソ連の圧力を受けて、ラーコシは首相を辞任、イムレ・ナジ(Imre Nagy)が首相に就任、ヤーノシュ・カーダール(János Kádár)が第一書記に就任します。ナジは1945年の農業改革を実行し、農業大臣として工業偏重政策を軌道修正し、国民の間で人気がありました。ナジは消費財生産を重視する政策を実施し、国民の生活水準の向上に努め、政治犯も釈放しました。しかし、ナジの後ろ盾であったソ連のマレンコフが権力闘争の中で失脚すると、ナジも首相の座を逐われます。そして1956年、大規模な民衆デモが発生します。ポーランドでの政変のニュースを起点として発生したデモは当初、ポーランドとの連帯を表明する平和的なものでしたが、次第に反ソ連、反共産党政権の性格を帯びるようになります。民衆の要求を受け、ナジが首相に復帰し、連立政権を樹立し、ハンガリーの中立とワルシャワ条約機構からの脱退を表明します。ここにいたりソ連は軍隊を派遣し、本格的に介入します。一週間にわたる戦闘で1,500人が死亡、16,000人が逮捕され、イムレ・ナジを含む2,000人の関係者が処刑されました。20万人が亡命し、国民総生産の5分の1にあたる財貨が破壊されたことは、ハンガリーの社会と経済に大きな打撃を与えました。しかし1960年代に入ると、ようやく負の遺産を克服する兆しが見え始めます。最高実力者のカーダールは漸進的な政治経済改革に着手し、その結果ハンガリーは東欧諸国の中で比較的安定的な国民生活を享受するようになります。
本コレクションは、米国国務省在外公館の外交官が国務省と交わしたハンガリーの政治、経済、社会、軍事動向に関する往復書簡です。往復書簡の他に、国務省スタッフが用意した報告書や覚書、国務省と外国政府との交信記録、国務省以外の省庁、民間企業、個人との往復書簡も収録されています。本コレクションは1945年から1963年までの文書を収録します。
(マイクロ版タイトル:Records of the Department of State Relating to the Internal Affairs of Hungary, 1945-1949; 1950-1954; 1955-1959; 1960-1963)
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- 東欧・ロシア研究