India from Crown Rule to Republic, 1945-1949: Records of the U.S. State Department
本コレクションは米国国立公文書館が所蔵する国務省一般記録群(RG59)のセントラル・ファイルの中から、1945年から1949年までのインドに関する米国国務省外交文書約54,000ページを提供するものです。収録文書は、第二次大戦末期からインド独立を経て1949年に至る時期のインドの政治・軍事・社会・経済事情をニューデリー、コルカタ、ムンバイ等、米国国務省在外公館の外交官が国務省と交わした往復書簡を通して明らかにします。
インド独立運動は第二次大戦終結により新たな局面を迎えることになりました。第二次大戦期、英領インド軍はイギリス帝国の軍隊として世界各地の戦線に派遣されました。大戦が終結すると、英領インド軍に不穏な空気が流れます。第二次大戦中、日本軍に投降した英領インド軍の将校や兵士を集め、インド国民軍が結成されましたが、インド国民軍はインド独立を目指し、日本軍と協力しイギリス軍を相手に戦いました。日本の敗戦が濃厚になる中でインド国民軍は解体、インド政庁は復員したインド国民軍兵士を国王への反逆罪で軍事裁判にかけることを決定します。この措置に対し、大衆的な抗議運動が発生、英領インド軍にもインド国民軍に対する同情が広がり、コルカタでは空軍兵士によるデモが発生します。
1946年2月には、ムンバイの英領インド海軍水兵がイギリスによる人種差別に抗議して反乱を起こすと、約2万人の水兵がハンガーストライキを実施、反乱の波はムンバイ以外の地域にも拡大しました。英領インド海軍の反乱という前代未聞の時代に慌てた労働党政府は事態を打開するために、戦時中チャーチルによって派遣されたスタフォード・クリップスを団長とする閣僚使節団を再度インドに派遣、閣僚使節団と独立運動を担う政治勢力の間で独立に向けた交渉が行われます。
インド独立運動を担う勢力に目を向けると、ガンジー率いるインド国民会議派とジンナー率いるムスリム連盟の間には独立インドの国家体制を巡り、深刻な対立が存在していました。国民会議派が様々な宗派が共存する世俗国家の建設を目指したのに対し、独立インドにおいて少数派の地位に陥る事態を恐れたムスリム連盟は中央・州議会議員総会で単一のムスリム国家の樹立を目標とする決議を採択します。
ムスリム連盟が直接行動の日と定めた1946年8月16日、コルカタでイスラーム教徒がヒンドゥー教徒を襲撃、約2万人の死傷者を出す大惨事が発生します。それまで共存関係にあった宗派が突如として暴力によって敵対する状況を前に、インド撤退の態勢にあったイギリス軍に秩序回復の力はなく、インドとパキスタンの分離独立は既定路線となります。
1947年6月2日、最後のインド総督ルイス・マウントバッテンはインドとパキスタン両国の分離独立案を提示、イギリス議会でのインド独立法案可決を経て、8月14日にパキスタンが、8月15日にインドが独立を宣言します。8月14日の夜、国民会議派の指導者ジャワハルラル・ネルーは、「世界が眠りについている深夜、時計が12時を打つ時、インドは生命と自由に目覚めるだろう」との有名な演説を議会で行いました。
しかし、独立の喜びも束の間、インドとパキスタンは悲劇に襲われます。両国の独立は国境線が未確定の状態での独立という極めて異例なものでした。両国の国境線を画定させるに際して、特定の宗派に肩入れしているとの非難を恐れたイギリス政府は、インドの宗教や文化については全くの素人で、インドを訪問したことすらない法律家のシリル・ラドクリフを国境委員会の委員長に任命します。国境委員会がヒンドゥー教徒やイスラーム教徒の居住状況を無視して「中立的」立場から引いた国境線(ラドクリフライン)が8月16日に発表されると、パキスタン領内のヒンドゥー教徒とシーク教徒はインドに逃れ、インド領内のイスラーム教徒はインドからパキスタンに逃れるという形で、現代史で類例のない規模の大量の移民難民が発生します。
インドとパキスタンの国境地帯に位置するカシミール地方は両国の紛争の火種となります。イスラーム教徒が多数を占めていたにも関わらず、ヒンドゥー教徒の藩王がインドへの帰属を望んだためインド領となったカシミール地方では、1947年10月20日にパキスタン領から武装義勇兵が侵攻し、自由カシミール自由政府の樹立を宣言します。インド政府も軍を派遣したため、両国は交戦状態に入ります。1949年1月に国連の調停の下で停戦が実現し、停戦ラインが国境線と定められますが、以後もカシミールでは両国間で度重なる紛争が発生しました。
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