Japan: Records of the U.S. Department of State Relating to Internal Affairs, 1950-1954
非軍事化と民主化を軸に展開したGHQの占領政策は、米ソ対立の激化により冷戦が本格化するに伴い、日本を極東における西側自由主義陣営の戦略的拠点とする米国の対日政策の下、軍事化と反共へと軸足を移動しました。1950年に創設された警察予備隊は保安隊を経て、自衛隊の誕生(1954年)につながります。また、マッカーサー指令に基づき、共産党中央委員並びに、政府、官庁、企業、メディア等各界における共産党員と共産党支持者を追放するレッドパージ(赤狩り)が始まったのも1950年です。赤狩りが行われる一方で、戦争責任を問われ公職を追放されていた政治家、軍人等の追放解除も行われました。
1950年代前半、首相の地位にあったのは吉田茂です。吉田茂は、講和条約を締結し占領を終結させ独立を実現すること、そして軍事を米軍に委ね、軽武装で経済復興を成し遂げることを最大の政策目標に掲げました。講和問題は、ソ連や中国等を除く自由主義陣営との単独講和とすべての関係国との全面講和のいずれを選択すべきかをめぐり、知識人や市民を巻き込んだ国民的論争に発展しましたが、吉田首相と米国政府の事前交渉により、単独講和が既定路線となりました。サンフランシスコ講和会議(1951年)では講和条約とともに、日米安全保障条約が締結され、対米依存という、その後の日本の外交・軍事の基本構造が出来上がりました。
経済面では、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需という僥倖を得て、復興の軌道に乗ります。吉田茂の路線は与党内で一枚岩の支持を得たわけではなく、対米自立と自主憲法制定を志向する鳩山一郎を中心とする勢力が反吉田の旗印を鮮明にしました。野党の社会党も講和条約に賛成の右派と反対の左派が分裂し、1955年体制が成立する前の時代にあって、国内政治は混沌としていました。講和条約の発効直後に、占領下で抑え込まれていた社会運動の胎動が噴出するかのように、皇居前広場でデモ隊と警察隊が衝突し、死者を出す事件が発生しました(血のメーデー事件)。
1950年代前半は、労働運動が空前の盛り上がりを見せた時代でもあり、炭鉱や電機産業など、基幹産業の労働組合が人員整理反対等の要求を掲げて頻繁にストライキを実施しました。1954年にはアメリカがビキニ環礁で行なった水爆実験で、第五福竜丸の乗組員が被曝した事件が発生、これを契機として原水爆禁止運動が始まりました。
本コレクョンは米国国務省の日本関係文書の中から1950年から1954年までの国内事情に関して、主として国務省と駐日大使館の間で交わされた往復書簡を収録します。6万ページ以上におよぶ収録文書は、日本の政治、行政、司法、警察、治安、労働運動、共産党や反体制派の運動等の政治問題から、貨幣、銀行、保険、国際経済、外国為替、投資、税制、製造業、化学工業、造船業、鉄鋼業、自動車産業、建設業、鉱業、貴金属、繊維産業、服飾産業、農業、穀物、コメ、畜産業、漁業、捕鯨、天然資源、労働問題、住宅、都市計画、運輸、土木、公共事業、知的財産、植林、防火、食糧不足、食料割当、闇市等の経済問題、さらには、公衆衛生、疾病、医療、災害、スポーツ、娯楽、映画、ラジオ、テレビ、マナー・習慣、結婚・離婚、教育、矯正、懲罰、監獄、慈善団体、孤児院、救貧院、母子福祉、年金、言語、芸術、文学、歴史、記念物、記念式典、宗教、移民、人口、人種、帰化、原子力の平和利用、通信、新聞、出版等の社会・文化問題まで広範囲におよび、米国政府が日本の国内事情に高い関心を払っていた状況がうかがわれます。
※1930-1949年編, 1955-1959年編と合わせてご検討ください。
(マイクロ版タイトル:Records of the Department of State Relating to the Internal Affairs of Japan, 1950-1954)
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