Japan: Records of the U.S. Department of State Relating to Internal Affairs, 1955-1959
1954年末に吉田茂が首相の座を退いた後、政権を担った民主党の鳩山一郎は、自主憲法制定と日ソ国交回復を政策目標に掲げました。自主憲法制定が政治日程に上ったことに危機感を覚えたのは革新陣営で、講和条約に対する賛否をめぐり左右に分裂していた社会党は統一を成し遂げました。社会党の統一を受けて、保守陣営の民主党と自由党は統一し、自由民主党が誕生しました。ここに、1955年体制が成立し、自由民主党は1990年代前半まで単独政権を担うことになります。鳩山政権は自主憲法制定の試みは断念に追い込まれましたが、日ソ国交回復は実現し、これに契機に日本は国連加盟を果たしました。しかし、北方領土問題は未解決のまま残されました。
鳩山政権の後継の石橋湛山政権が短命に終わると、岸信介が政権を首相に就任しました。岸は、東南アジア諸国を歴訪し、後のアジア開発銀行に繋がる東南アジア開発基金構想を掲げるなど、アジアにおける日本のプレゼンス拡大を目指しました。対米関係では対等の関係を構築するために、安保条約の改定を政治目標に掲げました。安保改定に際しては、反対運動を抑えるために警察官の権限を拡大する警察官職務法改正案を国会に提出するも、大きな反対運動を受け、廃案に追い込まれた。それでも岸は、米国との間で新安保条約の調印に漕ぎつけました。これを批准する1960年の国会会期中に、後に安保闘争と呼ばれる社会運動が起こります。
経済的には1955年は大きな転機の年でした。朝鮮戦争の休戦(1953年)により特需効果を失い、日本経済が構造的脆弱性を露呈する中で、特需に依存しない経済を実現するために、重化学工業に優先的に資金が供給される産業金融システムを構築したことが奏功し、1955年に実質経済成長率が10%を超え、翌年の『経済白書』は「もはや、戦後ではない」と、戦後復興時代の終了を宣言します。その後、一時的な不況を挟みながら、企業の旺盛な設備投資と安価な労働力と燃料費(原油)に支えられ、日本経済は1970年代前半まで高度経済成長を維持します。
本コレクョンは米国国務省の日本関係文書の中から1955年から1959年までの国内事情に関して、主として国務省と駐日大使館の間で交わされた往復書簡を収録します。55,000ページ以上におよぶ収録文書は、憲法、立法府、行政府、官僚、警察、司法府、外交、北方領土、沖縄、諜報、防衛、政党、選挙、共産党、暴動等の政治問題から、大企業、税制、知的財産、特許、商標、著作権、貿易、金融、貨幣、銀行、対外投資、鉄鋼業、公共事業、道路、運輸、建設業、化学工業、繊維産業、アパレル産業、スポーツ用品、写真機器、貴金属、鉱業、農業、穀物、コメ、畜産、森林、植林、漁業、捕鯨、食品、アルコール飲料、家具業、事務用品、労働問題、労使関係、ストライキ、年金、住宅、食糧、闇市等の経済問題、さらには、矯正、懲罰、監獄、災害、公衆衛生、疾病、医療、教育、学校、大学、人種、移民、帰化、宗教、マナー・慣習、歴史、記念物、記念式典、衣服、年金、健康保険、生命保険、科学、研究開発、原子力の平和利用、芸術、スポーツ、娯楽、演奏会、博物館、映画、ラジオ、テレビ、新聞、通信、出版、社交団体、慈善等の社会・文化問題まで広範囲におよび、米国政府が日本の国内事情に高い関心を払っていた状況がうかがわれます。
※1930-1949年編, 1950-1954年編と合わせてご検討ください。
(マイクロ版タイトル:Records of the Department of State Relating to the Internal Affairs of Japan, 1955-1959)
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