Laos: Records of the U.S. Department of State, 1963-1966
ラオスはカンボジア、中国、ミャンマー、タイ、ベトナムと国境を接するインドシナ半島の内陸国家です。1953年にフランスからの独立を達成し、1955年には国連に加盟しますが、政治体制は安定せず、親米派(右派)と親米ベトナム派(左派)と中立派の三派が抗争を繰り返していました。フランスと入れ替わる形で介入を始めた米国は、左派のパテート・ラオ(Pathet Lao)が実権を掌握するのを阻止するために、右派勢力に肩入れします。
1960年8月、コン・レ(Kong Lae)大尉が中立化の旗を掲げてクーデタを敢行、中立派のスワンナ・プーマ(Souvanna Phouma)が首相に再任されると、米国は、左派が参画するプーマ政権を警戒し、右派のプーミ・ノサワン(Phoumi Nosavan)将軍を支援します。同年11月に中立派とノサワン軍の間で軍事衝突が発生し、12月にノサワン軍は首都ビエンチャンを制圧し、ブン・ウム(Boun Oum)政権が成立します。プーマ首相はカンボジアに亡命し、中立派はジャール平原に撤退します。こうしてラオスは、西側陣営が正統政府と認めるビエンチャンを拠点とするブン・ウム政権と共産主義陣営が正統政府と認めるジャール平原を拠点とする中立派政権に分断されました。
この事態を前に、軍事介入か政治的解決かの選択を迫られたケネディ大統領は政治的解決の道を選択します。1962年に14ヶ国によるジュネーヴ国際会議でラオスの中立化が宣言され、プーマを首相とする第二次連立政府が形成されます。しかし、中立化宣言は実体を伴うものではなく、その後のラオスはそれ以前にも増して各派の対立が続きます。米国はジュネーヴ合意に違反しないよう、民間航空会社を使った物資の輸送を行なっていましたが、パテート・ラオの軍事攻勢を受け、民間航空会社のパイロットによるパテート・ラオへの爆撃や偵察飛行という形での軍事介入に踏み込みます。そして、1964年6月、米軍偵察機が撃墜され、パイロットが捕虜になる事件が発生すると、ジョンソン政権はアンガー大使の反対にも関わらず、報復攻撃を正式に承認、米軍はジャール平原に爆撃を実施します。2ヵ月後の1964年8月のトンキン湾事件への報復として米国はベトナムで北爆を開始しますが、北ベトナム軍の支援を受けるパテット・ラオの本拠地であるジャール平原を中心とするラオス北部と、北ベトナムから南ベトナムへの武器・物資輸送ルート(ホーチミン・ルート)沿線にあるラオス南東部を中心に、ラオスにも爆撃を繰り返します。その後、ベトナム休戦協定が結ばれる1973年まで、ラオスは「史上最大の空爆」(オバマ大統領)を受けることになります。
本データベースは、1960年代半ばのラオスの政治情勢に関する国務省の外交文書を電子化して提供するものです。国務省一般記録群(RG59)は1963年2月に、それまでの十進分類分類法(Decimal File)から主題・番号分類法(Subject-Numeric Files)へファイリング・システムが変更されました。収録文書は、政治(POL)の大分類が与えられた約17,000ページの文書群を収録します。ジュネーヴ合意が形骸化し、米軍によるラオス爆撃が開始し、ラオスが戦場と化した1960年代半ばのラオス情勢が米国外務省文書を通して明らかになります。
(マイクロ版タイトル:Records of the U.S. State Department: Laos, Political Relations and Governmental Affairs, February 1963-1966, Subject-Numeric File POL)