The Southern Literary Messenger: Literature of the Old South
『サザン・リテラリー・メッセンジャー』は1834年から南北戦争中の1864年まで30年にわたり刊行された文芸誌です。その名前が示すとおり、アメリカ南部における最も重要な文芸誌と見なされ、南部だけでなく北部でも読まれていました。
19世紀前半、北部の雑誌が文学界を牽引する中で、南部でも様々な雑誌が創刊されますが、多くは短命に終わりました。トマス・ウィリス・ホワイトにより創刊された『サザン・リテラリー・メッセンジャー』も創刊当初は低迷し、短命雑誌の運命に終わるかと思われましたが、創刊の翌年、当時はまだ無名だったエドガー・アラン・ポーを編集長に起用します。ポーは編集者としての才能を遺憾なく発揮し、自身も作品や書評を寄稿することで、雑誌の評判を上げ、わずか500人程度だった予約購読者を3,500人以上にまで増やし、同誌をメジャー誌に押し上げることに成功しました。
しかし、ポーの容赦のない作品批評は、作家からの反発を招き、その飲酒癖も災いして一年余りで編集長を解任されます。その後、雑誌は創刊者のホワイトに委ねられますが、1842年、病を患ったホワイトは、雑誌を文筆家ベンジャミン・ブレイク・マイナーに売却、マイナーの下で文芸誌から政治や歴史を論ずる論壇誌に変わります。1847年、今度はマイナーが出版人ジョン・ルーベン・トンプソンに雑誌を売却、トンプソンは雑誌を再び、文芸誌に戻し、ポー、フィリップ・ペンドルトン・クック、ウィリアム・ギルモア・シムズ、ヘンリー・ティムロッドら、南部の有名作家の作品を掲載します。
1850年代、奴隷制をめぐる問題が活発に論じられると、雑誌は州の権利擁護、奴隷制擁護、反奴隷制廃止の論調へとシフトし、党派的性格を帯びるようになります。1860年、南北の対立が激しくなる中で、同誌は南部の連邦離脱を強く訴える論陣を張ります。南部諸州の連邦離脱により南北戦争が勃発すると、北部の作家とも断絶し、奴隷制と南部支持の立場を鮮明にしますが、この政治的傾向は次第に経営を支えていた北部の読者を失う結果を招き、ついに南北戦争が終わる1年前の1864年6月廃刊にいたりました。1860年代の記事からは、南北戦争時に全米で論議された奴隷制や南部諸州の連邦脱退の問題が、南部の知識人や作家たちの間でどのように取り上げられていたのか、うかがうことができます。
(マイクロ版タイトル:Southern Literary Messenger, 1834-1864)
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