Turkey: Records of the U.S. Department of State, 1802-1949
本コレクションは、米国国務省在外公館の外交官が国務省と交わしたオスマン帝国やトルコの動向に関する往復書簡です。米国は19世紀初頭にスミルナ(イズミール)に領事館を設置したのを皮切りに、コンスタンティノープル(イスタンブール)、アンカラ、トレビゾンド(トラブゾン)、アレクサンドレッタ(イスケンデルン)、ハルプト、エルズルム、メルスィン、シヴァ等、オスマン帝国やトルコ国内の各地に領事館を設置しました。国務省と領事館の往復書簡の他に、国務省の報告書や覚書、国務省と外国政府との往復書簡、国務省以外の省庁の文書も収録されています。
(関連資料: トルコ関係 米国務省文書集 1950-1959年 および トルコ・ギリシア・バルカン諸国関係 米国務省文書集 1930-1944年 も合わせてご検討ください。)
かつて西アジア、ヨーロッパ、北アフリカ一帯に広大な領土を築いたオスマン帝国も18世紀後半を過ぎると、衰退の兆候を示し始めました。1838年にイギリスとの間で締結した通商条約(バリタリマヌ条約)は、イギリスに領事裁判権を認める一方で、帝国から関税自主権を奪う不平等条約で、他の西洋諸国とも同様の不平等条約締結を強いられたオスマン帝国はその凋落ぶりを白日の下に晒しました。
帝国の凋落を目の当たりにした指導層は西洋をモデルとした近代化政策の推進に着手します。ギュルハネ勅令発布(1839年)から帝国憲法制定(1876年)までのタンズィマート改革で、行政機構、刑法・商法体系(法典編纂)、裁判制度(世俗裁判所の設置)から教育制度(公立学校の整備)、軍制、帝国臣民の権利保障まで、近代化・西洋化に向けた一連の改革が実施されました。
しかし、立憲君主制が成立したのも束の間、伝統主義者の巻き返しを受けて、制定2年後に憲法はスルタンにより停止に追い込まれます。以後、帝国末期は帝国の進路を巡って近代主義者と伝統主義者の間で抗争が繰り広げられます。
この状況下、76年憲法の復活を目指す改革派が結集し、統一と進歩委員会(青年トルコ党)を結成、革命運動を展開します。委員会は1908年に憲法復活を宣言、1913年にはクーデターで権力を掌握します。権力掌握の翌年に勃発した第一次大戦ではドイツ、オーストリア等の同盟国側に参戦します。連合国のイギリスはトルコを不利な状況に追い込むべく、帝国内のアラブ民族反乱を支援する一環としてアラブ国家樹立を支持する一方で、フランス、ロシアとの間では帝国領分割に関する秘密協定を結び、さらにユダヤ民族国家の樹立をも約束したことで、後のパレスチナ問題の種を撒くことになりました。
第一次大戦に敗北したオスマン帝国は連合国との間でセーブル条約を締結し、領土の多くを喪失、敗戦後の混乱の中でギリシアの侵攻を受けます。この国難の中、軍人のムスタファ・ケマルは祖国解放運動を率い、アンカラに国民会議を招集、ギリシア軍の撃退に成功します。1923年には連合国との間でセーブル条約に変わるローザンヌ条約を締結し、不平等条約を撤廃します。同年、トルコ共和国の樹立が宣言され、共和人民党のケマルが初代大統領に就任します。スルタン・カリフ制は廃止され、政教分離を国是とする世俗国家として、共和人民党の一党独裁体制の下で近代化・西洋化政策が推進されました。
共和人民党の一党独裁体制は1946年に複数政党制に移行するまで続きました。第二次大戦後の冷戦下では、トルコがソ連の影響圏に入るのを嫌った米国から軍事支援と経済支援を受け、西側陣営に組み込まれました。
本コレクションは、18世紀から20世紀半ばに至るトルコと周辺地域に関する政治、外交、経済、社会情勢に関する重要な情報を含む貴重な資料群です。
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