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1888年1月9日の創刊号(創刊当時の紙名は『ロンドン・フィナンシャル・ガイド』、翌年『フィナンシャル・タイムズ』に改称)
"London Financial Guide." Financial Times, 9 Jan. 1888, p. [1]. Financial Times Historical Archive.
運命を決定付けた合併
1945年、シティ(英国ロンドンの金融中心街)の2つの小さな新聞、『フィナンシャル・ニュース(Financial News、以下「FN」)』と『フィナンシャル・タイムズ(Financial Times、以下「FT」)』が合併し、今日のFTが生まれた。この合併によって誕生した現在のFTは、金融ジャーナリズム業界でかつてないほど急成長を遂げ、高い名声を得るようになる。2000年以降のFTは、きわめて現実的な意味合いにおいて、まさに60年以上前の幸運な合併の産物なのだ。
元となった2紙のうち、先に創刊されたFNは、1884年、『フィナンシャル・アンド・マイニング・ニュース(Financial and Mining News)』として生まれた。創業者で25年近くにわたり編集長を務めたのは、エネルギッシュではあるものの時に慎重さを欠く人物として知られるハリー・マークス(Harry Marks)である。1880年代に彼は、正確な情報を即時に伝える日刊金融紙の将来性に気づいたのだった。この新刊紙がターゲットとしていた当時のシティは、国際的影響力も重要性も今までになく高くなっていた。金本位制の全盛期で、ロンドン証券取引所は急成長を遂げていた。金融を専門とする新聞・雑誌はすでに存在していたが、マークス率いるFNほど株式市場について詳しく報道し、鋭いアドバイスを提供するものは他になかった。
FTの誕生
4年後の1888年2月13日、『フィナンシャル・タイムズ』というライバル紙が現れた。FTはその紙面冒頭に「恐れず、媚びず(Without Fear and Without Favour)」をモットーとして掲げ、自らを「正直な資本家」と「節度あるブローカー」の友であり、「無節操な事業家」と「ギャンブル経営者」の敵であると豪語した。創刊年のうちに、悪名高き事業家のホレイショ・ボトムリー(Horatio Bottomley)など複数の経営者の手に渡ったが、翌1889年にはダグラス・マクレー(Douglas MacRae)の下で堅実かつ順調に経営されるようになった。印刷業界人だったマクレーは、FNと肩を並べる日刊金融専門紙をつくる余地があると信じて疑わなかった。当初は苦戦したマクレーだが、1893年にはマーケティングの非凡な才能を見せる。ライバル他紙と並んでいても一目でFTとわかるよう、印刷紙をピンク色に変えたのだ。その2年後、南アフリカ金鉱株をめぐっていわゆる「カフィル・ブーム(Kaffir boom)」が起き、証券市場やシティ全体が過熱感に包まれた。これによって読者数と広告が急増し、FTの未来は確固たるものとなった。
「恐れず、媚びず」のモットーを掲げた1888年1月9日創刊号の題字
"London Financial Guide." Financial Times, 9 Jan. 1888, p. [1]. Financial Times Historical Archive.
カフィル・ブームについてのFT記事(1894年12月28日)
"The Kaffir Boom." Financial Times, 28 Dec. 1894, p. 2. Financial Times Historical Archive.
株式ブローカーのバイブル
それから第一次世界大戦までの20年以上にわたって、FNとFTは日刊金融専門紙の紛れもない双璧として君臨した。発行部数も、利益も、全体としての評判も拮抗していたが、大戦によって流れが大きく変わる。優れたジャーナリストだがバランス感覚に欠けていたエリス・パウエル(Ellis Powell)が率いるFNは、有力な地位にある国賊による陰謀説「見えない手(unseen hand)」を報じる低俗なプロパガンダ紙に成り下がるという致命的な過ちを犯したのだ。このために、当時まだ読者層の中核を成していたシティの関係者たちはFNに愛想をつかした。彼らは何よりも正確な報道を重視し、主観にもとづく誇張表現は無意味だと考えたのだ。一方、FTは堅実路線を維持し、「株式仲買人のバイブル」として知られるようになった。1919年からは、『サンデー・タイムズ(Sunday Times)』の所有者で後に『デイリー・テレグラフ(Daily Telegraph)』も買収したやり手のベリー兄弟(Berry Brothers)がオーナーとなった。取り上げるトピックは限られ、面白みには欠けていたものの、金融関漣ニュースの正確さには定評があった。20年代から30年代にかけてFTは、おしなべて山高帽をかぶった当時のシティ金融ビジネスマンにとって、まさに「必読紙」となっていた。
「見えない手(unseen hand)」による陰謀論を否定するFTの記事(1917年2月10日)
"Winding-Up Enemy Banks." Financial Times, 10 Feb. 1917, p. 2. Financial Times Historical Archive.
一方FNは1920年代半ばから敏腕編集長たちのもとで巻き返しを図った。新進気鋭のジャーナリストを採用し、FTよりも外向的で気の利いた紙面作りを目指した。2度の世界大戦に挟まれたこの時期、FNのチームには、金融関連のトピックを扱った「ロンバード街(Lombard Street)」というコラムで人気を博したポール・アインツィヒ(Paul Einzig)や、有名な「30株価指数(30-Share Index)」(後にFTに継承)を立ち上げたオットー・クラーク(Otto Clarke)、後にスリラー作家に転身した若きハモンド・イネス(Hammond Innes)もいた。1928年からFNを率いたのは、大胆不敵で行動力と自信に満ち溢れた会長ブレンダン・ブラッケン(Brendan Bracken)だった。ブラッケンは当時からすでにウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)と懇意で、第二次世界大戦時には情報大臣を務め、イーヴリン・ウォー(Evelyn Waugh)の小説『回想のブライズヘッド(Brideshead Revisited)』に登場するレックス・モットラム(Rex Mottram)のモデルとも言われた。だが当時のFNは、そうした優能な人材に恵まれていたにも関わらず、特に30年代初頭の不況下には大変な苦戦を強いられた。発行部数は当時約3万部を数えたFTの3分の1にも満たず、倒産の危機に瀕していた。
FTに引き継がれた30株価指数(1954年4月3日)
"The Industrial Ordinary Index-1947 and Now." Financial Times, 3 Apr. 1954, p. 4. Financial Times Historical Archive.
2紙の合併
そうした状況が戦後も続くのを防いだのは、ウィリアム・ベリー(William Berry)の父でFTの所有者であったカムローズ卿(Lord Camrose)が1945年にFNに対して行ったFT売却という、やや気まぐれともとれる提案だった。健康上の不安を抱えていたのと、『デイリー・テレグラフ』紙に一族の心血を注ぎたかったこともその背景にはあったが、最大の理由は、その年の総選挙で(大方の見方に反して)労働党が勝利すると予測したことと、戦後に状況の一変したシティで日刊金融専門紙が2紙とも生き残ることは難しいと考えたことだ。FNのブラッケンは即座にこの提案を受け入れた。買収価格をめぐって難航したものの、1945年10月1日、2紙は合併した。合併後の新聞は、発行部数も営業力も勝っていたFTの紙名を残し、もちろん印刷紙もピンク色となった。
FNとFTの合併を記念する記事(1945年10月1日)
Parkinson, Hargreaves, Editor of the Financial Times. "How 'F. N. ' and 'F. T. ' Served City and Investors." Financial Times, 1 Oct. 1945, p. 4. Financial Times Historical Archive.
産業と金融の情報紙
こうしてFNは名目上は姿を消したが、合併後の新たなFTでトップの座についた人々によって、FNの精神の大部分は引き継がれた。新FTの会長にはブラッケンが、編集長には元FN編集長のハーグリーヴス・パーキンソン(Hargreaves Parkinson)が就任した。パーキンソンが始めた「レックス(Lex)」コラムもFTに引き継がれた。さらに、日々の経営管理はブラッケンの愛弟子のムーア卿(Lord Moore、後のドローイダ卿 Lord Drogheda)が取り仕切った。新聞に対する厳しい制限がかかり、FTの発展の足かせとなったが、パーキンソンの先見の明ある編集手腕によって、FTは金融だけでなく、産業動向も暫定的に取り上げるようになった。1949年、パーキンソンは健康上の理由により早期に辞任し、やはりFN出身のゴードン・ニュートン(Gordon Newton)が後を継いだ。
FTに引き継がれた「Lex」コラム(1945年10月1日)
Lex. "Buying for Transition Period." Financial Times, 1 Oct. 1945, p. [1]. Financial Times Historical Archive.
この人事は当然視されていたわけではなかったが、ブラッケンの人選は的中したといえる。その後23年間、ニュートンは20世紀シティの新聞業界における敏腕編集長の1人として活躍した。彼はインテリではなかったが、読者のニーズを察知する鋭い感覚を持っていた。ニュートンは自分で記事を書きはしなかったものの、効果的な報道記事を確実に見極めることができた。常にFTの領域を押し広げていったが、実務家のための実用的な新聞であり続けることを決して忘れなかった。彼は直観的にニュースの価値を判断し、正確性にこだわり、仕事に対してどこまでも貪欲だった。FT紙史上、ニュートンほど大きな功績を残した人物はいない。
「産業・商業・時事」のモットーを掲げた第20,000号の題字(1953年7月8日)
"The Financial Times." Financial Times, 8 July 1953, p. [1]. Financial Times Historical Archive.
読者層の拡大
1950年代前半に新聞用紙の制限が緩和されると、ニュートンはパーキンソンの意志を引き継いで本格的に産業や労働に関する記事を取り上げ、さらに本来の専門である金融記事も拡充して、シティをFTの揺るぎない “砦” にした。1953年7月8日、第20,000号発行を記念し、題字の下に「産業・商業・時事」の文言を取り入れ、それから10年間、この謳い文句の通り、精力的に紙面を拡充し、読者層を拡大していった。同じく1953年、ニュートンはムーアの勧めで、グレアム・グリーン(Graham Greene)の戯曲『居間(The Living Room)』のレビューを皮切りに、後に人気を博するアート欄も新設した。ニュートンはまた、オックスフォード・ケンブリッジ両大学からの毎年2、3人の新卒ジャーナリスト採用を制度化し、これも奏功した。後に大活躍するウィリアム・リーズ=モグ(William Rees-Mogg)やナイジェル・ローソン(Nigel Lawson)もこうして採用され、共に拡大を続けるFTで貴重な下積み時代を送った。
グレアム・グリーン『居間』の劇評(1953年4月18日)
Greene, Graham. "The Living Room." Financial Times, 18 Apr. 1953, p. 5. Financial Times Historical Archive.
その後も変化の勢いは衰えなかった。1957年、FTは石油からメディアまで幅広い事業を傘下に有するピアソン社(Pearson)に買収された。これによって、資本基盤は以前よりもはるかに盤石なものとなった。1958年にブラッケンが他界し、翌春FT社がセントポール大聖堂を望むキャノン・ストリートのブラッケン・ハウスに移転した際に記念式典が催された。同社は1989年にサザーク・ブリッジのすぐ南に移るまで、そこを本拠地とした。50年代末から60年代初頭にかけて株価が高騰し、英国は「かつてないほどの好況(never had it so good)」を経験し、FTも繁栄を極めた。1961年には平均発行部数が13万2000部に達し、ニュートンの編集長就任時から倍増以上の伸びを記録した。FTは狙い通り、高級全国紙の地位に「到達」したのである。
「かつてないほどの好況(never had it so good)」に言及した記事(1957年12月14日)
Lombard. "Money Gifts and Tokens." Financial Times, 14 Dec. 1957, p. 4. Financial Times Historical Archive.
重大な試練
ニュートンは自身の編集長就任期間中として最後の大きな試練に直面した。1967年に経営者が代わった『タイムズ(The Times)』紙は、ビジネスニュースを綴じ込み別面にしたため、この分野でほぼ独占状態にあったFTを脅かすようになった。ニュートンは「テクニカル」欄(後に「テクノロジー」に変更)および「エグゼクティブズ・ワールド(The Executive’s World)」(後の「マネジメント」)、さらに土曜版に印象的なタイトルの「ハウ・トゥ・スぺンド・イット(How To Spend It)」のページ(1994年以降は雑誌形式で発行)を導入して読者層をさらに拡大し、反撃に転じた。その後数年間にわたって、若き国際部編集長J・D・F・ジョーンズ(J.D.F. Jones)らの大活躍により、ニュートンは海外の記事も急速に拡充させた。70年代初頭、世界でFTほど多くのフルタイム海外特派員を擁する新聞社は皆無に等しかった。ニュートンが引退した1972年末には、発行部数が19万部を超え、誠実かつ報道の真実性に対する高い倫理観を持った新聞として知られる存在へと大きく変貌を遂げていた。
初期の「ハウ・トゥ・スぺンド・イット(How To Spend It)」(1968年12月28日)
"How to Spend It… Sheila Black." Financial Times, 28 Dec. 1968, p. 9. Financial Times Historical Archive.
FTの刷新
ニュートンの後を継いだフレディ・フィッシャー(Fredy Fisher)はドイツ生まれの国際派で、FTをさらなる発展へと導いた。彼の下でFTはよりプロフェッショナルで魅力的な紙面へと刷新された。さらには紙面構成の見直しも行われ、専門分野の記事が再び拡充された(とりわけ力を入れたのが、当時活況を呈し重要性が増していた欧州市場の記事)ほか、一部の「経済以外」の領域では一般紙とは競争しないとする方針を受け入れた。さらにこの改革の一環として、1979年にフランクフルトで欧州版が発刊され、80年代初期には海外拡大方針をとり、国際ビジネスマン向けに英国の他紙が追随できないような完全編集体制の確立を目指した。
欧州市場についての特集記事(1978年2月6日号)
"Euromarkets." Euromarkets: Financial Times Survey. Financial Times, 6 Feb. 1978, p. 11. Financial Times Historical Archive.
「FT無くしてコメント無し」
1980年代残りは、1981年より編集長として静かに君臨したジェフリー・オーウェン(Geoffrey Owen)の下、上昇傾向の株式市場や資本市場の自由化、活発な金融活動に総じて支えられ成長を続けた。また、英国内で広告キャンペーンが大成功し、「FT無くしてコメント無し(No FT... no comment)」というスローガンが定着した。1986年には発行部数が初めて25万部を超え、その4分の1を英国外での販売が占めた。ロンドンとフランクフルトに加え、1985年からはニューヨーク版も発行して国際的なビジネスニュースを提供し、他紙を凌駕した。1987年からは世界で初めて世界株式指数を日刊で提供し、創刊100周年時点では世界でも稀に見る真に国際的な新聞へと成長した。1988年2月、この記念すべき発展をロンドンのギルドホールで盛大に祝い、大蔵大臣として名声を高めていたナイジェル・ローソンや、20世紀後半を代表する米国の中央銀行バンカー、ポール・ボルカー(Paul Volcker)も来賓として祝福に駆け付けた。
「FT無くしてコメント無し」(1983年5月14日)
"No FT No Comment." Financial Times, 14 May 1983, p. 4. Financial Times Historical Archive.
グローバル化時代のグローバルな新聞
FT創刊100周年からの20年間はグローバル化が進んだ時代だった。世界経済は初めて、ほぼボーダーレスになった。1991年からリチャード・ランバート(Richard Lambert)、2001年からアンドリュー・ガワーズ(Andrew Gowers)、2005年からライオネル・バーバー(Lionel Barber)の一連の編集長に率いられたFTは、英語がますますビジネス界の共通言語になっていった恩恵を受けて、もしかすると世界のどの新聞よりもこの変化を報道し、また自らもそれを踏襲したのではないだろうか。その間、英国の他紙は世界情勢の報道も海外特派員の数も著しく減らしたため、既に真の国際紙となっていたFTがその穴を埋める絶好の機会を手にした。1990年代から2000年代にかけての新しい世界経済に関するFTの定評ある報道に、多くのジャーナリストが貢献したが、同紙経済面の主幹コメンテーターであるマーティン・ウルフ(Martin Wolf)ほどに活躍した者はいないだろう。ウルフは政治的・経済的理由から資本主義を信奉していたが、市場原理主義とは一線を画し、FTが最も大切にしてきた信念をまさに体現していた。
マーティン・ウルフによる記事(1994年11月21日)
Wolf, Martin. "Managing China's Emergence." Financial Times, 21 Nov. 1994, p. 24. Financial Times Historical Archive.
さまざまなプラットフォーム、核となるプロダクト
その頃、FTの読者層に変化が生じていた。1988年にはパリ、1990年には東京が、FTの英国以外での第3、第4の発行拠点となった。1995年にはマドリード、ストックホルム、ロサンゼルスがそれに続き、同時に、国際版が刷新された。他にもFTの拠点が続々と加わった。1996年に香港で印刷を開始し、1997年には米国版を創刊、1998年にはミラノとシカゴでも印刷を開始した。1988年には英国外の発行部数が英国での発行部数を上回った。1999年にはボストンとサンフランシスコで、2000年にはダラス、マイアミ、クアラルンプール、ソウルでも印刷を開始し、ドイツ語版の『FT Deutschland』を創刊。2001年には1日あたり総発行部数が50万部を超え、歴代記録を更新した。2002年には南アフリカでデジタル印刷が始まり、2003年にはドバイとアトランタで、2004年にはシドニーでも印刷を開始し、2008年には中東版が創刊された。各地域版にはそれぞれの地域色が表れているが、国境やタイムゾーンを越えてもなお、FTは新聞紙のピンク色だけでなく、一貫したFTらしさを堅持している。もちろん、近年ではプラットフォームも紙媒体だけではない。1995年にいち早く立ち上がったウェブサイト FT.com は、2002年に刷新され有料購読サービスが始まった。その年の終わりには月間のユニークユーザー数が320万人に達し、ページ閲覧数は5千万を超えた。その後数年はウェブ版新聞で有料購読のビジネスモデルは特異な存在であり続けたが、2009年には他紙も商業面での生き残りをかけて有料購読制度を取り入れざるをえなくなっていった。現在では中国語版FTのウェブサイトの人気も急上昇しており、客観的なニュースやビジネス情報のニーズの高さを反映している。
FT.com への課金サービス開始の記事(2002年4月30日)
"Ft . Com to Introduce Subscription Services Next Month." Financial Times, 30 Apr. 2002, p. 21. Financial Times Historical Archive.
今日のFT
FTには現在でもなお、紙媒体・電子版にかかわらず、半世紀前にゴードン・ニュートンが築いた信念が息づいている。堅実さ、客観性、そしてファクトとコメントを区別することへのこだわりは変わっていない。「我々は Financial Times(金融の時代)に生きている」というコピーが、2007年に英国で新たな広告スローガンとなった。ちょうどその頃、世界的な金融危機が起こり、FTは得意とする世界情勢の報道だけでなく、危機に対する中長期的な処方箋について議論を展開するという新境地を開拓した。2010年代も、金融の時代が続くことは間違いない。FTはこれからもそうした時代に不可欠の案内人であり続けるだろう。
世界金融危機当時の紙面の例(2008年9月18日)
Guha, Krishna, et al. "Panic grips credit markets." Financial Times, 18 Sept. 2008, p. [1]. Financial Times Historical Archive.
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