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はじめに
出版の長く活発な歴史を見渡しても、『パンチ』のような雑誌は見かけられない。ジョーク、だじゃれ、パロディー、漫画、社会・政治諷刺といった多彩な要素が混ざり合った1号3ペニーのこの週刊誌は、瞬く間に英国中間層の生活のリズムと感性に溶け込んでいった。創刊から3年を待たずして、とある筆者からその「永続的な存在と大規模な成功」を絶賛され、1858年には『アトランティック・マンスリー(Atlantic Monthly)』の筆者から「この時代の機関、権力であり、19世紀の勢力である蒸気機関や電信と比較しても見劣りしない存在である」と評された。1840年代に『パンチ』を読むという新たな習慣を身につけた英国の読者は、その後何世代にもわたり、この習慣にこだわり続けることになる。『パンチ』が文化の一部となったことを象徴するかのように、創刊から40年後には、ジョン・ラスキンが端的に「不滅の週刊誌」と評した一方で、アメリカの劇作家ブランダー・マシューズは、「『パンチ』は、単なる週刊諷刺雑誌ではなく、ロンドンタイムズ、イングランド銀行、国教会、王室と同じく堅固に設立された英国の一機関となった [……] 英国政体になくてはならない根幹として受け入れられている」と述べている。『パンチ』のバックナンバーを探検することは、150年以上にわたって毎週行われてきたユニークな全国的対話に耳を傾けることに他ならない。そしてこの対話は、さまざまな歴史上の出来事と並んで、毎週新たな号を作り上げた編集者、執筆者、アーティスト、彫版工、経営者たちの陣容の変化と、彼らの嗜好や能力によって形作られたのである。
『パンチ』第5巻 扉絵
"Prelim Page to Volume V (1843)." Punch, vol. 5, 1 July 1843. Punch Historical Archive, 1841-1992.
1841年夏のロンドンで、新たな諷刺画誌を創刊できる見通しは極めて不透明だった。木版画を中心に構成され、パリの人気紙をモデルにした安価な諷刺雑誌というアイデア自体は1830年代を通して流行し、多くの雑誌が現れては消えていた。中でも成功を収めていた1号1ペニーの週刊誌『フィガロ・イン・ロンドン(Figaro in London)』も数年前に廃刊に追い込まれ、以来、大衆の心をつかむ雑誌は登場していなかった。決して有能な人材が不足していたわけではない。フリート街には、若きアーティストやライターが大勢たむろしており、その多くは、様々な新聞やパンフレット、劇場から仕事を得て、その日暮らしをしつつ、合間に居酒屋に集まっては仕事探しをしていた。1
始まり
『パンチ』が誕生したのは、このように酒臭くて陽気でありながら、極めて競争の激しい環境にあったストランド街に隣接する混み合った路地だった。革新的な彫版工、エベネザー・ランデルズ(Ebenezer Landells)は、『フィガロ・イン・ロンドン』が失敗した道で成功を収めようと心に決め、印刷工のジョセフ・ラスト(Joseph Last)に加え、その後、史上最も卓越し、万能な文芸ジャーナリストの一人として名を刻むこととなるヘンリー・メイヒュー(Henry Mayhew)の協力を得た。メイヒューは、すぐさま友人のマーク・レモン(Mark Lemon)に相談する。当時レモンは、ウィッチ・ストリートにある居酒屋、シェイクスピアズ・ヘッド(Shakespeare’s Head)を切り盛りしながら舞台向けの寸劇を書いていた。レモンの助けを借りて、ライターのダグラス・ジェロルド(Douglas Jerrold)、ギルバート・アボット・ア・ベケット(Gilbert Abbot à Beckett)、スターリング・コイン(Stirling Coyne)、W・H・ウィルズ(W. H. Wills)、アーティストのアーチボルト・へニング(Archibald Henning)を含む、立ち上げスタッフが集まった。ランデルの自宅や、ストランド街のエディンバラ・キャッスル(Edinburgh Castle)、ヴィネガー・ヤードのクラウン・イン(Crown Inn)といった居酒屋で開かれた一連の会議を経て、『パンチ』という誌名が決まり、内容見本や財務の詳細が作成された。定期刊行物を発刊する際の従来モデルであるオーナーとしての役割を果たしてくれる出版社が見つからなかったため、創刊立案者らの間で損益を分担することになった。メイヒュー、レモン、コインが会社所有権の1/3と引き換えに編集責任を分担することとなり、ランデルが1/3で木版画の製作を担当、残り1/3の所有者であるラストがクレイン・コートに所有する敷地内で雑誌を印刷することになった。つまり、事実上、単独所有者不在のまま、制作者がすべてを分担する共同経営となったのである。
こうして、『パンチ』は、創刊日の数週間前に、内容見本10万部、ちらし6千枚を含む、たっぷりと予算をかけた広告活動でデビューを果たした。1841年7月17日には創刊号を発売し、続く数週間でそれなりの認知度を獲得していったものの、高額で膨らむばかりの経費という代償を伴った。当初の関心の高まりはすぐに薄れてしまい、その後、売上は落ち込んでいく。借金がかさんでいくなか、印刷工のジョセフ・ラストが9月までには完全撤退の意向を示したことから、ラストの持分をランデルが取得し、雑誌の2/3を所有することになった。その秋、メイヒューとその友人であるH・P・グラタン(H. P. Grattan、当時、借金で収監されていた)が、パンチ暦(Punch Almanack)の作成に着手した。ちょうどクリスマスシーズンに間に合うように発刊されたパンチ暦は、1週間で約9万部を売り上げるという大成功を収めた。年末までには、150ポンドの貸付と引き換えに『パンチ』の印刷業務を保証するとの合意を通して、ウィリアム・ブラッドベリーとフレデリック・エバンスの会社(Bradbury and Evans)が『パンチ』の専属印刷業者になった。この事実が初めて発表されたのは第2巻の始まりとなる1842年1月号においてだった。
1842年版の初の「パンチ暦」より12月のページ
"Time Introducing the First of January to the Thirty-First …." Punch, 1 Jan. 1842. Punch Historical Archive, 1841-1992
新所有者:ブラッドベリー&エバンス
ブラッドベリー&エバンスは、ジョセフ・ラストに代わる印刷業者として、また最終的には共同所有者として、当然の選択だったと言える。というのも、諷刺画誌を成功させる上で必要でありながら、長い間両立は不可能と考えられてきた2つの要素、つまり、多数の木版挿絵の使用と、高速かつ大量の印刷の両立にあえて挑み、成功させた印刷会社は他にロンドンに存在しなかったからである。これは決定的だった。同社は『パクストンの植物学雑誌(Paxton’s Magazine of Botany)』のような図版入り定期刊行物の印刷における長年の経験に加えて、『コミック・アニュアル(Comic Annual)』とのかかわりもあった。そしておそらく何よりも重要なことに、チャップマン&ホール(Chapman and Hall)が大成功を収めた革新的な試み、チャールズ・ディケンズによる挿絵入り月刊分冊小説の印刷を担当していたのである。それは1836~1837年の『ピックウィック・ペーパーズ(Pickwick Papers)』の目を見張る売れ行きに始まり、『ニコラス・ニクルビー(Nicholas Nickleby)』(1838~1839年)へと続いていた。1841年12月には、週刊誌『パンチ』と同じ1部3ペニー、全16ページで、木版画をふんだんに使用し、しかも部数ではかなり上回る週刊誌(『マスター・ハンフリーズ・クロック(Master Humphrey’s Clock)』)の印刷という大仕事をちょうど完了していた。新たな印刷会社の参入とパンチ暦の成功が重なったことで、広告ページを減らして空いたスペースに優れた木版挿絵をより多く掲載できるようになったのだった。
とはいえ、パンチ暦の成功も、印刷業者の変更も、当初から『パンチ』を悩ませてきた2つの問題、すなわち、資本不足と効果的な流通網の欠如を解決する助けにはならなかった。財務状況の悪化は、1842年後半に同誌から高価な全ページ漫画が減ったことからもうかがえる。この状況を受けてランデルは、アーティストのH・G・ハイン(H. G. Hine)を始めとする寄稿者に同誌の持ち分を購入するよう説得したが、成功には至らなかった。『パンチ』の古株は、当時ギルバート・ア・ベケットが編集室の窓から身を乗り出して「現金が必要だ!」と通行人に向かって叫んでいた様子を鮮明に記憶している。発行部数が少なすぎて経費をまかなえず、債務の圧力から投機的に発行部数を上げていくという、当時多くの定期刊行物の早すぎる終焉を招いたのと同じ下降スパイラルにおちいり、持続可能なレベルの発行部数を維持する希望は遠のくばかりだった。1842年初めのある時点で、レモンとダグラス・ジェロルドは、再度ブラッドベリー&エバンスにかけあい、今度は、『パンチ』編集者の持ち分である1/3を売却することを申し出た。ところが、この譲渡に大反対したのが『パンチ』の生みの親とも言えるエベネザー・ランデルズで、法的措置もいとわない姿勢だった。その年の4月から12月まで長引いた一連の協議を経て、ランデルズは残りの持ち分を350ポンドで同社に売却した。これは、同誌の負債額をわずかに超える程度の金額でしかなかった。当初は『パンチ』の木版画すべてを製作する事業を保持していたランデルズさえも、ほどなくして全面的に締め出されてしまい、桁外れの資力を持つブラッドベリー&エバンスが完全な支配権を握ることになった。
本領発揮
2~3年以内に、同誌は、さまざまな改良を経て、20世紀に至るまで続く勝利の方程式にたどり着く。学者のリチャード・オールティック(Richard Altick)がいみじくも指摘したように、『パンチ』が当初成功した要因は、同誌が何であったかではなく、何でなかったかによる。1820年代と1830年代を通して、ロンドンの諷刺紙は、究極の党利党略を事とする政治色、あからさまに下品な言葉、みだらなスキャンダル、有名人に対する痛烈な個人攻撃で不評を買っていた。例えば、バーナード・グレゴリーの『諷刺作家(The Satirist)』、チャールズ・モロイ・ウェストマコットの『ジ・エイジ(The Age)』、レントン・ニコルソンの『ザ・タウン(The Town)』は特に悪名高く、脅迫にさえ手を染めていた。ヴィクトリア朝初期の読者からすれば、『パンチ』の偉業は、最も厳格な家庭であっても家族全員が安心して読み回せるような、諷刺的な解説があって退屈しない、健全な笑いを提供したことであった。事実、スキャンダル紙とは際だって対照的に、妻、夫、子供、使用人など家庭という設定からのユーモアが多く、政治漫画ですら公人を学校、街中、保育園にいる子供になぞらえて表現することが少なくなかった。同誌に関する最初期の評論の1つにおいて『タイムズ』紙は、「下品で、低俗で、特定の個人を不作法に取り上げた内容が完全に排除されている」と肯定的な評価をしており、同誌に対するこのような評価は、長年にわたり繰り返されてきた。この品のよい自制の多くは、共同創業者かつ(ヘンリー・メイヒューとともに)共同編集者であり、1845年から1870年に死去するまでは単独編集長として、内容を厳しくチェックすることで知られていた、マーク・レモンの注意深い監視のおかげだったと言えるだろう。
同様に特徴的だったのは、同誌が最新の話題性を徹底的に追求したところだった。『パンチ』のスタッフは、ニュースに登場する人物や出来事になぞらえる滑稽なネタを求めて、ギリシア・ローマ神話、現代小説や詩、話題の絵画、人気のキャッチフレーズ、広告、風習、ゴシップ、ファッション、さらには自誌のバックナンバーに至るまで、くまなく探し回った。過ぎゆくロンドン・シーンに生息する無数の “キャラ” をもとに描かれたジョン・リーチ(John Leech)のキャプション付き挿絵は大好評を博した。また、初期のスタッフで最も有名なライターであるダグラス・ジェロルド(Douglas Jerrold)は、冷酷な救貧法委員、禁猟区を設定する地主、暴君的な搾取労働管理者といった人々に対する執拗で急進的な批判に鋭い知性と痛烈な機知を発揮した。『パンチ』の執筆陣が諷刺雑誌に初めて取り入れた連載漫画は大好評を博し、広く模倣される特徴となった。毎晩、妻からの批判に耐える従順な夫が描き出されている、ダグラス・ジェロルドの「コードル夫人の寝室説法(Mrs. Caudle's Curtain Lectures)」(1845年1月から11月)、“スノッブ(俗物)” という言葉を世にもたらした、W・M・サッカレーの「イングランドのスノッブ達(Snobs of England)」(1846年2月から1847年2月)は大ヒットし、ディケンズ小説の人気登場人物と同じくらいにヴィクトリア朝中期の精神世界の一部となったほどだ。アーティストやライターの創作物が、その生き生きとした喜劇性によって、数え切れない読者の想像を虜にしてしまうこの現象はその後何十年にもわたり繰り返された。
「コードル夫人の寝室説法」(1845年4月12日号より)
[Douglas Jerrold]. "Mrs. Caudle's Curtain Lectures." Punch, vol. 8, no. 196, 12 Apr. 1845, p. 161. Punch Historical Archive, 1841-1992
『パンチ』関係者の間で “ラージ・カット”(Large Cut)2と称された全ページ政治漫画は、初期にはリーチが、後にジョン・テニエル(John Tenniel)が頻繁に描いていたが、これも同様に、それまでの政治諷刺画の常であった性的でわいせつな下品さにうんざりしていた時代に、政治的な図像表現のあり方をすっかり変えてしまった。さまざまな出来事(インド大反乱、第二次選挙法改正案、パリ陥落、ビスマルクの引退など)を幾度となく捉えてきたラージ・カットは、その生々しさから、後々になっても消えることなく、各出来事と永遠に結びついた存在となっている。『タイムズ』紙がその週に取り上げた社説や記事のトピックに合わせられることが多かった『パンチ』のラージ・カットは、国内最強・最大の影響力をもつ新聞と、ヴィクトリア朝の中産階級の日常会話や生活との複雑かつ再帰的な関係を強化し、拡大し、共有する役割を担った。
不滅の人形芝居であるパンチ&ジュディ・ショーの主役、ミスター・パンチ(Mister Punch)に雑誌の管理人、著者、代表の役割を付与することで、当時ロンドンの街で子供も大人も楽しませていた国民的キャラクターに多くの読者が抱くノスタルジアと愛着を利用した『パンチ』創刊の着想は天才的だったと言える。この奇抜な着想があまりにも強烈に根づいた結果、以来、多くの読者は不老不死の “ミスター・パンチ” が同誌を発行していると考え、そのようにも書いた。この傾向は、英国の定期刊行物業界で長きにわたって守られてきた寄稿者匿名の伝統によってさらに助長された。ただし、同時代の読者には、匿名寄稿者の正体の多くはお見通しだった。例えば、「コードル夫人」の著者がジェロルドであることは公然の秘密だった。さらに現在では、研究者の素晴らしい努力のおかげで『パンチ』の内部記録が開示されたことにより、各ライターの寄稿について詳細が明かされ、同誌の探究で遭遇する材料の多くについてさらに深く理解することができるようになっている。3
『パンチ』歴史アーカイブでは当時の編集台帳をもとに匿名寄稿者の多くを特定し、検索可能にしています。
上記はサッカレーによる匿名記事の例。(右の台帳の画像はデータベースには収録されておりません。)
1842年末の単独オーナーへの移行は、創刊間もない同誌の転換期となり、社内文化という点においても、毎週開かれる夕食会議の重要性をさらに高めることになった。新オーナーは週次会議の性質を大きく変える2つの変更を行った。まず、参加者をスタッフのみに限定したことと、そして開催場所を自社内に変更したことである。印刷業務のために専門の熟練工を維持するという方針に慣れ親しんでいたブラッドベリー&エバンスは、外部からの寄稿に大きく依存するのではなく、週払いで寄稿する少人数の常駐スタッフを確保するやり方を支持した。スタッフと同様、週次会議も特別な場となり、出席できるのは招待者のみ、オーナー自身がブーヴェリー通りの自社敷地内で主催するケータリングディナーとなり、ここで『パンチ』のスタッフは、楕円形のテーブルを囲んで集まるようになった。このテーブルは、ほどなくして、寄稿者が自らのイニシャルを刻んだ伝説の “パンチ・テーブル” と称されるようになった。会議への出席は特権であると同時に重責でもあり、時とともに『パンチ』が国民的雑誌に成長していくにつれ、共通の使命をもつ選ばれし集団としての感覚、端的に言うなら、文筆家同志としての意識をスタッフの間で高めることにもつながった。やがて会議は土曜日(発行日)から水曜日の夜に変更され、その目的は、同誌で最も影響力のある毎週の目玉になっていた、全ページの政治漫画「ラージ・カット」の題材、形式、キャプションを決めるための議論に狭まっていった。
創設世代
その後数年をかけて、スタッフも削減されていくことになった。最初に去っていった一人がスターリング・コインだった。共同編集者としても、寄稿者としてもほとんど役に立たなかった彼は、ダブリンの新聞から盗作したことをレモンに気づかれ、即座に解雇された。初期の犠牲者のもう一人は、ジョン・リーチの友人、アルバート・スミス(彼と同じように元医学生)だった。スミスは『パンチ』創刊から2年間、『夜のパーティーの生理学(The Physiology of Evening Parties)』を始めとする人気シリーズを寄稿し、一般的に外部からは新進気鋭の若いライターと見なされていた。社交的で気さくなスミスを魅力的に感じる人が多かった一方で、横柄で不作法と捉える人もいた。スミスに耐えられず、常に残酷なジョークのターゲットにしていたジェロルドもその一人だったが、もしかすると、創刊まもない頃の同誌のより自由奔放だった雰囲気へのスミスの執着、特にチェシャー・チーズ・パブで『パンチ』のゲラをありとあらゆる人に見せて回る悪癖がレモンの怒りを買った結果だったかもしれない。この間、アーティストのH・G・ハイン、アーチバルド・へニング、ケニー・メドウズ、ライターのW・H・ウィルズを含む他の寄稿者も、解雇されたり、他の新聞やプロジェクトに移っていったりした。
より大きな損失は、ランデルズとともに創刊者の一員で、その情熱と創作力が、創刊からの数年間、同誌の勢いを保つ上で極めて重要な役割を果たしてきたヘンリー・メイヒューが辞めたことだった。レモンと共同編集者を務めていたメイヒューの強みは、他の人が実行に移すためのアイデア、特に、各号を構成していた無数の小さな木版画を考え出す才能にあった。数年後、メイヒュー自身が『パンチ』での自らの役割を説明しているように、「次週号のテーマの取り扱いを寄稿者とアーティストに提案、指摘していた」のである。現存する当時のラージ・カット案の記録もその主張を裏づけているようにみえる。しかし、とある関係者が当時を振り返り、「テーマにかかわらず、何時間でも綿々と講釈を垂れつづけたものだった [……] 聞く者さえいれば、何時まででも続けることができた」と述べたように、彼は本質的に独演家だった。メイヒュー自身は執筆の仕事をほとんどせず、この頃には “提案者” として優秀な他のスタッフは執筆の仕事にも相当貢献していたことから、オーナーも、彼の提案的な会話スタイルに編集者の給料、年俸200ポンドもの対価を支払うのは法外だと感じたのかもしれない。後年のメイヒューの仕事として挙げられるのが、ありし日のロンドンの貧困労働者を印象的に記録した『ロンドンの労働とロンドンの貧民(London Labour and the London Poor)』で、現在に至るまで歴史家が参考にしている先駆的な調査である。
1846年4月にメイヒューが去った後も、マーク・レモンは単独編集者としてとどまり、その監督のもとでスタッフたちは長年にわたり『パンチ』を活気づけていった。その中心にいたのが、アーティストのジョン・リーチだった。彼の作品は、瞬く間に雑誌の外観とトーンを定義するようになった。多くの読者にとって、リーチこそが『パンチ』、彼の漫画が最高峰で、とにかく、リーチのいない『パンチ』は考えられなかった。ハンサムで潔癖症、極度に神経質で勤勉な彼は、一過性の流行、ファッション、ささいな欠点を穏やかに笑いの種にする才能において、当時のどのアーティストよりも勝っていた。ヴィクトリア朝の読者が、リーチの絵、特に、絶えず目を丸くしている “リーチ・ガール” に注いだ愛情の深さは、いくら強調してもし過ぎることはないし、再現するのも難しい。一方で、『パンチ』の同僚たちもリーチに対し愛情のこもった尊敬の念を抱き、これは、後年、怒りっぽくなった彼に対しても変わることはなかった。リーチは、クリノリン・ペチコートの大流行を描いた諷刺的な描写から、不運な太めのスポーツマン、ミスター・ブリッグス(Mr. Briggs)のおかしな描写に至るまで、自らの諷刺画において、読者が即座に共感できるロンドン中流階級の暮らしの細かな特色をいくつも映し出してみせ、読者から永遠の愛を獲得したのだった。リーチとともに主要なイラスト業務を担当していたのは、早熟なアーティストのリチャード・ドイル(Richard Doyle)で、1843年の終わりに『パンチ』で働くようになった頃にはまだ10代の青年だった。
ジョン・リーチによるラージ・カット「実体と影」(1843年7月15日号)
[John Leech]. "Cartoon, No. 1." Punch, vol. 5, no. 105, 15 July 1843. Punch Historical Archive, 1841-1992
30歳の法廷弁護士、ギルバート・アボット・ア・ベケットは、初期の同誌に加わるようレモンとメイヒューが最初に誘ったライターの一人だった。数々の活気あふれる諷刺画紙で編集者、ライターを務めてきた豊富な経験、特に1830年代初期に『フィガロ・イン・ロンドン』で収めた成功をよく知っていたからである。1842年、短期間の不在を経て、ギル・ア・ベケットは、『パンチ』に復帰し、半年ごとに100欄にものぼる詩文を生み出し、確実に最も多作な寄稿者となった。後に救貧法委員、警察の治安判事となるア・ベケットは、法廷弁護士としての経験を生かし、「ザ・コミック・ブラックストン(The Comic Blackstone)」や、『パンチ』で最も人気を博した常連キャラクターの一人だった不運の法廷弁護士、「ミスター・ブリーフレス(Mr. Briefless)」を生み出した。穏やかな物腰で、どちらかというと恥ずかしがり屋の彼は、ラージ・カットの話し合いでは積極的な役割を担っていたものの、それ以外では会話のほとんどを他の人に任せていた。
1843年10月28日号の「ザ・コミック・ブラックストン」
[Gilbert a'Beckett]. "The Comic Blackstone." Punch, vol. 5, no. 120, 28 Oct. 1843, pp. 175+. Punch Historical Archive, 1841-1992
ヘンリーの弟、ホレス・メイヒュー(Horace Mayhew)は、一時期、レモンの編集補佐を務めていたが、何らかの理由から、これが “騒動” の種となり、その職務もレモンが担うことになった。一方で、“ポニー” のあだ名で呼ばれていたホレスは、種々雑多な寄稿をするスタッフとして残留した。兄が去った後、ホレスは、労働者の待遇改善を指示する初期『パンチ』の “急進的な” 方向性においてジェロルドの主な政治的盟友になっている。
もう一人、初期の熱心な寄稿者として挙げられるのが、パーシヴァル・リー(Percival Leigh)である。その博識と厳粛で学者ぶった物腰から “教授” というあだ名されたリーは、聖バーソロミュー病院でともに若き医学生だった当時、リーチやアルバート・スミスと親しくなり、初期のスタッフとして採用される前から、いくつかの諷刺作品でリーチに協力したことがあった。韻文づくりの達人で、特に1840年代『パンチ』の目玉だった古典風の戯詩を書くのが巧みだったリーは、アーティスト、リチャード・ドイルの見事な漫画『1849年イギリス人の風俗と習慣(Ye Manners and Customs of Ye English in 1849)』に添えた、サミュエル・ピープスの日記をもじった文章で最大の成功を収めている。リーは『パンチ』スタッフの中で、当時も、その後も、最も知名度の低い人物かもしれない。しかし、目立たなかったとはいえ、長年にわたる安定した寄稿者であり、“テーブル” でも高く評価された博識の人であり、語り部だった。そのテーブルに初めてイニシャルを刻んだのも彼であった。
2年間、外部寄稿者として見習いをしていたトム・テイラー(Tom Taylor)は、ヘンリー・メイヒューが去ったのを受けて “パンチ・テーブル” に招かれた。学者としても名高い(ケンブリッジ大学のフェローだった)テイラーは多才な書き手だったが、彼にとって『パンチ』での仕事は、法廷弁護士、公務員、『タイムズ』紙の芸術批評家、英文学教授、著名な劇作家など、数々のキャリアの1つにすぎなかった。生真面目で、どちらかというと短気、政治に関しては名目上リベラルだったものの、現状以上の参政権拡大については深い疑念を抱いていたテイラーは、“テーブル” での会話や『パンチ』のページに一定の知的な真面目さと、政府内部関係者としての責任感をもたらした。晩年には同誌の編集長も務めた(1874~1880年)。
この頃、“テーブル” と同誌で最も影響力があり、強力な発言権を持っていたのはダグラス・ジェロルド(Douglas Jerrold)だった。ジョン・リーチが『パンチ』のより無難なユーモアに独特の視覚的特徴とトーンをもたらしたとすれば、ジェロルドは諷刺的な切れ味と政治的な真剣味をもたらした。会話での素早い切り返し、辛辣なウィットで有名だった彼を知る人は誰もが会話での強敵と評し、友人にも敵にも変わらず向けられた機知に富んだ傲慢な毒舌は、彼の死後も変わらず語り草になるほどだった。広範な経済危機の時代に主に貧しい人々を代弁し、富裕者と権力者を攻撃した初期『パンチ』の “急進的” な政治色は、主にジェロルドとレモンによるものだった。後者は、1843年12月にトーマス・フッドによるお針子搾取に対する悲痛な抗議、「シャツの歌(Song of the Shirt)」の掲載を敢行し、全国的なセンセーションを巻き起こしている。『パンチ』で編集長に次ぐ力を持つジェロルドだったが、一部、手強い反対勢力がいたのも事実だった。挿絵で同誌の人気に多大な貢献をしていたジョン・リーチは、トーリー党支持を公言し、労働者を公然と軽蔑してはばからなかった。従って、ジェロルドが提案したテーマと切り口で1840年代に手がけたラージ・カットの多くは、猛烈な抵抗の下で描かれたものと推察される。一方、アルバート・スミスやア・ベケットを含む他のスタッフは、ジョークに集中し、政治や時事問題についての真剣な論評は断じてやめるべきだと考えていた。
「シャツの歌」(1843年12月16日号)
[Editor's Copy]. "The Song of the Shirt." Punch, vol. 5, no. 127, 16 Dec. 1843, p. 260. Punch Historical Archive, 1841-1992.
ジェロルドに最も声高に反対していたのは、同誌で2番目に人気のあったライター、ウィリアム・メイクピース・サッカレー(William Makepeace Thackeray)だった。裕福なインド在住英国人の家庭に生まれたサッカレーは、ケンブリッジ大学で教育を受けたものの、1830年代に富を失い、必要に迫られて物書きの仕事を始め、スミスが去った後にスタッフに加わっている。若い頃は急進的な政治思想に共感していたものの、年を重ね、成功を収めるにつれ、生来の保守的な傾向が表面化し、これが競争心の強い性格と相まって、彼が考えるところの権威に対する見苦しい扇動、不敬な嘲りを繰り返すジェロルドと自然に敵対するようになっていた。最終的には、1848~1849年のチャーティスト運動崩壊を受けた政治情勢の変化、『パンチ』におけるサッカレーとその同志の影響力の強まり、『ロイズ・ウィークリー(Lloyd’s Weekly)』編集長など他のプロジェクトの誘惑から、ジェロルドの過度に急進的な政治色のもつ影響力は後退していった。すでに1846年末までに、ジェロルドは、旧友のチャールズ・ディケンズに宛てた書簡の中で、自らが感じていた『パンチ』の真剣味の欠如、何でもジョークのネタにしてしまう姿勢について不満を述べ、「あらゆる物事に対してばか笑いを続ける態度に世間はいずれ飽きるだろうと私は確信している(少なくとも、そう期待している)。結局のところ、人生には真剣な何かがつきものだからだ。すべてが滑稽な人類の歴史というのはあり得ない」と記している。1850年代半ばまでには、それなりに定期的に『パンチ』に寄稿し、夕食会にも参加はしていたものの、ジェロルドの関心は他に移っていたのだった。
1850年代、同誌は激変を遂げることになる。1850年、イングランドにおけるローマ・カトリック教会の聖職位階制復活の試みを受けて、サッカレーやリーの反対を押し切ってレモン、ジェロルド、リーチが行ったジョン・ワイズマン枢機卿と教皇ピウス9世に対する個人的非難、猛烈な「カトリック反対」キャンペーンに抗議してドイルが辞職する。ほどなくしてヴィクトリア朝時代最高の下絵画家の一人であったチャールズ・キーン(Charles Keene)が、1860年になるまで “テーブル” には参加しないものの、『パンチ』での長いキャリアを始めることになった。また、長い間予期されていたことだが、サッカレーを失うという打撃も加わった。ジェロルドとの衝突ですでに落ちつかない状況にあったサッカレーは、『ヴァニティ・フェア(Vanity Fair)』で大成功と世界的名声を享受していた。その後、『ペンデニス(Pendennis)』でも成功を収めたサッカレーは、匿名による諷刺ジャーナリズムの仕事とその低い地位とを重荷に感じるようになり、他と比べて賃金が低いと不満を覚えていたのである。『パンチ』での仕事はやりつくしたと感じるようになったサッカレーは後年、エバンスに「ボートを引っ張るには自分は大きくなりすぎたと感じていた。それに、レモンとジェロルドが私を好きになることは物事の本質としてあり得なかった」と語っている。それでも、サッカレーは時折、夕食会に顔をだし、付き合いを続けていた『パンチ』仲間の方も、世界的に評価される作家との懇意な関係を誇りに思っていた。
サッカレー辞職の結果として最も重要だったのは、歴史家のマリオン・スピルマンが後に「『パンチ』の歴代寄稿者の中で、恐らく最も優秀で役に立つ、万能な男」と評した、後任のシャーリー・ブルックス(Shirley Brooks)の採用だろう。1840年代、最盛期の『モーニング・クロニクル(Morning Chronicle)』で旅行と議会双方の記事を担当していたベテランジャーナリストのブルックスは、元スタッフのアルバート・スミスが『パンチ』とあからさまに競合して立ち上げた月刊誌、『ザ・マン・イン・ザ・ムーン(The Man in the Moon)』の主力として諷刺執筆に参入した人物だった。『パンチ』を食い物にした、あまりにも賢く、しかも悪意のないブルックスのいじりに敬服したレモンが寄稿者として採用し、1852年にスタッフに加わることになる。ブルックスの保守的な政治思想、傑出した能力、押しの強い話術はやがて、“パンチ・テーブル” の談論文化に大きな変化をもたらし、かつてのジェロルドのように、ブルックスが完全に支配するようになっていくのだった。この時期に掲載された有名なラージ・カットの多くはブルックスの提案によるものだった一方で、彼の連載、「議会の本質(Essence of Parliament)」は議会政治に対する辛辣な機知に富んだアプローチの草分けで、長年にわたり大好評を博した。歴史家が指摘する1850年代から1860年代にかけての『パンチ』における保守色の高まりは、ブルックスによる影響力の増大と連動している。
「議会の本質」(1865年5月6日号)
[Shirley Brooks]. "Punch's Essence of Parliament." Punch, vol. 48, 6 May 1865, p. 179. Punch Historical Archive, 1841-1992
ブルックスの前には、もう一人の新人、ジョン・テニエル(John Tenniel)が加わっている。テニエルは、ブルックス採用の前年に、ジェロルドの提案でリチャード・ドイルの辞職による空きを埋めるために採用された人物で、古典的な訓練を受けた画家であり、挿絵画家でもあった。『不思議の国のアリス』の挿絵で今日最も知られているテニエルは、すぐにリーチからラージ・カットの実務を引き継ぎ、記憶に残る象徴的な表象(ジョン・ブル、ブリティッシュ・ライオン、ブリタニカ、フェニアンの脅威)や著名人の肖像画(ディズレーリ、ビスマルク)を生みだした比類なき才能で、すっかりラージ・カットを自分のものにしてしまった。
ジョン・テニエルによるラージ・カット「向こう見ずな行動」(1867年8月3日号)
"A Leap in the Dark." Punch, vol. 53, 3 Aug. 1867. Punch Historical Archive, 1841-1992
1850年代半ばの最後の変化は、最も深刻なものだった。古くからの同志、ギルバート・ア・ベケットとダグラス・ジェロルドが、1年の間もあけずに相次いで急死したのである。ブローニュで家族と休暇を過ごしていたア・ベケットはジフテリアにかかり、1856年8月30日に45歳でこの世を去った。ジェロルドは『パンチ』に心のこもった死亡記事を寄せ、同僚の15年間にわたる貢献をたたえて評した「温和な、男らしい精神」というその言葉は、ハイゲート墓地にあるア・ベケットの墓石に刻まれている。それから1年もたたない1857年6月8日、ジェロルド自身もスタッフ最高齢の54歳で世を去ることになる。彼は、死の床で “パンチ・テーブル” の友人へのメッセージをホレス・メイヒューに託した。「親愛なる仲間達に伝えてくれ。誰かを傷つけてしまったことがあるかもしれない。でも、常にみんなを愛していたと」(ジェロルドの後任は口数が少なく、生産的だが凡庸なライター、ヘンリ・シルバー(Henry Silver)だった。注目に値する仕事はほとんどしていないが、“パンチ・テーブル” での会話を書き記したシルバーの日記は、同誌に関する豊かな情報源になっている。)ア・ベケットとジェロルドの死によって、『パンチ』の創設世代で “テーブル” に残ったのは、マーク・レモン、ジョン・リーチ、ホレス・メイヒューのみとなった。それでも、創設世代の彼らが、ブラッドベリー&エバンスの抜け目ない支援と励ましのもとで築き上げた体制が、その後何世代にもわたり『パンチ』を導いていくことになる。
大成功と変遷
『パンチ』には常にライバル誌が存在していたが、中でも最も活発だったのは1860年代に登場した『ジュディ(Judy)』、『トマホーク(Tomahawk)』、そして特に『ファン(Fun)』だった。このライバル関係は、諷刺を鋭くするだけでなく、寄稿者も増やす結果につながった。『マン・イン・ザ・ムーン』がシャーリー・ブルックスを供給したように、『ファン』は1863年にフランシス・バーナンド(Francis Burnand)を『パンチ』にもたらした。ケンブリッジ出身で非常にエネルギッシュなバーナンドは、バーレスクの達人で根っからのだじゃれ好きだった(1880年から1906年まで同誌の編集長を務めることになる)。1864年、47歳という若さでのジョン・リーチが死ぬと、読者だけでなく、一部のスタッフさえも、彼抜きで雑誌がやっていけるのかを不安視する危機を引き起こした。この喪失を受けて、ジョージ・デュ・モーリア(George Du Maurier)が挿絵画家として加わり、後に、チャールズ・キーンとともに、リーチが名をはせた “ソーシャル・カット” を担当することになる。デュ・モーリアの描くエレガントな装いの男女は、リーチの風俗喜劇の滑稽さをいささかも減じることなく、さらに洗練したレベルに引き上げた。その後、1880年代の唯美主義者たちに向けた彼の鋭い諷刺は、彼らの気取った言動について強烈なイメージを植え付けることになる。「ベンガルトラに対するブリティッシュ・ライオンの報復(The British Lion's Vengeance on the Bengal Tiger)」(1857年)、「向こう見ずな行動(A Leap in the Dark)」(1867年)など、記憶に残るカットで大衆の心に完全に確立された政治漫画芸術の達人、ジョン・テニエルとともに、1860年代の新星、バーナンドとデュ・モーリアが、19世紀の残り数十年間にわたり、『パンチ』のトーンと外観を主に定義していくことになる。
デュ・モーリア「子供と愚者は真実を言う」(1866年4月7日号)
du Maurier, George. "Children and Fools Speak Truth." Punch, vol. 50, 7 Apr. 1866, p. 144. Punch Historical Archive, 1841-1992
同誌の所有権も、過去との強力なきずなを保ちつつ、時とともに移行していった。1865年、ウィリアム・ブラッドベリーとフレデリック・エバンスが息子たちに事業を引き継いで引退すると、マンチェスターの著名な画商、トーマス・アグニュー&サンズ(Thomas Agnew and Sons)の存在が大きくなっていった。その理由は、トーマスの娘ローラとブラッドベリーの息子の結婚にあった。1872年、エバンスの息子が退職に追い込まれ、ウィリアム・ハードウィック・ブラッドベリー(William Hardwick Bradbury)が有能な義兄であるウィリアム・アグニュー(William Agnew)の助けを借りて、ブラッドベリー、アグニュー&カンパニー社(Bradbury, Agnew & Co.)の経営を引き継いだのである。アグニューのリベラルな思想と当時の芸術に対する洗練された理解は、ともに “パンチ・テーブル” での議論に影響を及ぼし、同誌にその痕跡を残すことになる。1890年、同社は有限会社となり、すでに国会議員になり、ほどなくして准男爵となるウィリアム・アグニューが会長の座に就任した。
『パンチ』の連続性は、数多くのスタッフによる長年の貢献によって保たれたものであった。シャーリー・ブルックスは、非常に長い間、マーク・レモンの右腕として働いてきたことから、1870年にレモンが死去した際も、継ぎ目なく編集長の職務に移行することができた。その功績のひとつとして、「議会の本質」シリーズの装飾頭文字を描いたアーティスト、リンリー・サンボーン(Linley Sambourne)を育てたことが挙げられる。サンボーンは、その後、約40年にわたり、同誌での仕事を続けることになる。また、1874年にブルックスが急死した際には、トム・テイラーが後任となった。生き生きとした想像力を持ち合わせていなかったテイラーは、バーナンド、デュ・モーリアなどの才能を頼りに同誌を前進させていくのだった。バーナンドの編集長としての四半世紀に、居酒屋をルーツとする同誌の騒々しい痕跡の多くが、ついに姿を消すことになる。スタッフ会議は、より静かで、より秩序立ち、もしかすると、より生産的になったと言えるかもしれない。ブルックスが専門としていた議会担当を引き継いだヘンリー・ルーシー(Henry Lucy)による議会スケッチは、アーティスト、ハリー・ファーニス(Harry Furniss)の手で見事な挿絵に変貌していった。当初、ファーニスの作品はテイラーにより却下されていたのだが、1880年にバーナンドが即座に採用したのだった。ファーニスは、『パンチ』で14年以上にわたり、高齢のW・E・グラッドストンを始めとする政治家を描き続け、大人気を博した。バーナンドが懸命に取り戻そうとしていた、爽快な刺激性に花を添えたのが、『あべこべ(Vice Versa)』の著者、エフ・アンスティ(F. Anstey)をはじめとする寄稿者たちである。後期ヴィクトリア朝文学における喜劇小説の傑作である、ジョージ&ウィードン・グロウスミス兄弟(George and Weedon Grossmith)著の『無名なるイギリス人の日記(Diary of a Nobody)』は1888年から1889年にかけて同誌に連載され、それ以来、絶版になったことがない。19世紀が『パンチ』の黄金時代だったとすれば、20世紀は、P・G・ウッドハウスからロナルド・サール、A・A・ミルンからサー・ジョン・ベチェマンに至るまで、驚くべき新たな才能とエネルギーがもたらされた時代だったと言える。同誌の現代史を満足に語るには、これと同じエッセイを少なくとももう1本は書かなくてはならないだろう。
おわりに
『パンチ』の文章は魅力的で有益な資料であるが、これまで常に挿絵の陰に隠れてしまい、その豊かさが十分に認識されてこなかった。それが現在、ようやく、文章と画像の双方を徹底的に探索できるようになったのである。19世紀に発行された『パンチ』を、かくもたやすく閲覧、検索すれば、そのページから無数の方向に広がる世界、『パンチ』のライターやアーティストの屈折した喜劇的想像力に映し出された、ヴィクトリア朝の中流階級文化や政治的日常の謎に満ちた深淵にいざなわれずにはいられない。『パンチ』は、ゴミ収集作業員から司教、警察官、無愛想な使用人の女の子から口先だけの国会議員、見下されたアイルランドの過激派に至るまで、街中、競馬場、パーラー、教室、海辺での暮らしの一面を垣間見せ、次々に登場する時の人々の対話を聞かせてくれるのである。同様に、寄稿者と読者の対話が、同誌、そして、読者が自分たちを取り巻く世界に対する見方・考え方を形作っていったのだろう。
『パンチ』歴史アーカイブのホーム画面
脚注:
1 .『パンチ』の競合誌や19世紀の諷刺芸術全般については、Brian Maidment, "Pencillings, Cuts and Cartoons: Punch and Early Victorian Comic Illustration"(英文)を参照
2. 一部の学者や研究者は「ビッグ・カット」(Big Cut)と呼ぶこともある。
3. 『パンチ』の社屋には各号に誰が寄稿したかを記録した編集台帳が保管されていた。この台帳から得られた著者データは『パンチ』歴史アーカイブに搭載され、雑誌内の特定の記事が誰の筆によるものだったのか、初めて知ることができる。
無断転載を禁じます。
引用書式の例:リアリー、パトリック(センゲージラーニング株式会社 訳)「19世紀『パンチ』小史」 Punch Historical Archive 1841-1992. Cengage Learning KK. 2022