講演要旨
ロンドン郊外にあるイギリス国立公文書館(The National Archives)には、一九世紀初頭以降、この国が清朝政府以来の歴代中国政府との間でやりとりした様々な外交文書が保存されている。そこに残された文書はあまりに膨大で、一人の歴史研究者が一生かけても読み切れるものではない。
その中で General Correspondence (FO17) と呼ばれる文書群は、1815年から1905年にかけて主として、イギリスが清朝政府と二度の戦争を開いて結ばせた講和条約の締結に到る交渉の顛末を記した文書と、北京に開かれたイギリス公使館から本国外務省に宛てて送られた文書から構成される。そこには、中国共産党が「屈辱の百年」と呼んで何もかも否定的にしか描きたがらない時代の真実が、イギリス人の視点で詳しく書き残されている。
一九世紀のイギリス政府は、なぜ清朝政府との開戦を決意したのか。その理由は、誰でも知っているインドアヘン輸入の公認や香港島の割譲、関税自主権奪取だけではなかった。その証拠に、二度の戦争の講和条約の内容は、これ以外に多くの条文が盛り込まれているからである。なぜ、このような条文が盛り込まれなければならなかったのか。そして、その条文はどこまで効力があったのだろうか。こうした問題は今まで殆ど提起されたことがなかった。ただ、一九八〇年代に、この講和条約の結果実現した「治外法権」制度には大きな限界があったことが実証され、ようやく一九世紀後半から二〇世紀初期にかけての中国の対外関係に対する関心が、歴史研究者の間で少しずつ呼び起こされただけにすぎないのである。
一九世紀中期、イギリスが軍事力にものを言わせてまで清朝政府に押しつけた講和条約の中に盛り込まれていたのは、上記の問題だけでなかった。資本主義経済を支えていた制度価値観を中国に認めさせることがその真の目的だったのである。逆に言えば、中国はこの時も今と変わらず、イギリスやそれ以外の西洋諸国のような議会制民主主義、資本主義経済の上に立脚した領土主権国民国家とは似ても似つかぬ国家であった。では、それは如何なる点がイギリスを筆頭とする西洋先進資本主義国、あるいは日本と異なっていたのだろうか。そして、イギリスとの二度の講和条約を筆頭に、他の西洋諸国、日本から「不平等条約」を押しつけられることで中国社会に一体何が起きたのであろうか。
私は、この問題に関心を抱き、大学院生時代からイギリス外務省記録を使って英中社会経済史と取り組んできた。この研究体験を元に、今回デジタルデータベース化されたFO17を史料に使うと、「屈辱の百年」についてどのようなことが言えるのかを、三つの事例を紹介して述べてみたい。
第一は、中国は海外からの需要に依存しなければ、その経済的繁栄を維持できないということと、同時にその経済的繁栄はものすごい環境破壊を伴っていたことを、逆説的に証明することである。一九世紀第四四半期になって、インド紅茶産業、日本緑茶産業の勃興によって最大の輸出産品であった茶産業が衰退し、大量の失業労働者が出現し、彼らが一八九〇年代になって不満のはけ口を西洋人キリスト教宣教師とその庇護下に置かれていた中国人信徒に向けられるようになっていたこと。そしてこの動きが義和団事変へとつながったと考えられることである。
第二は、中国の為政者が「屈辱的」と捉えられる現象は、「不平等条約」の締結によって一朝一夕で起きたのではないということの証明である。それは、「不平等条約」特権を与えられていた在華イギリス人・企業と雇用取引関係を有することによってこの特権を自分たちの生命・財産保護手段に利用しようとする中国人の増加によって引き起こされていたのだということである。
そして最後の第三は、中国におけるイギリスの覇権に対する日本の挑戦がどのようにして出現したのかである。それは、中国での外国企業製品商標保護制度という形をとって現れた。
この三つの主題を踏まえ、イギリス政府が残した膨大な文書記録を史料に用いることで、今後の中国史社会経済史研究をどのような方向に発展させることが可能なのかについて私見を述べてみたい。