米国務長官・政治家ディーン・アチソン文書集
米国務長官・政治家ディーン・アチソン文書集
Dean Gooderham Acheson Papers
本コレクションはイェール大学図書館が所蔵するディーン・アチソン文書を提供するものです。アチソンが政府の職にあった時の文書だけでなく、1898年から1978年までの書簡、演説、著作、切り抜きなどを含み、特に政界引退後の1953年以降の文書が豊富です。弁護士時代の文書や私文書まで、約46,000ページの文書を収録します。著書の校正刷り、著書に関する出版社等との文書、書評なども含まれています。
ディーン・グッダーハム・アチソン(1893-1971)は1941年、フランクリン・ルーズベルト政権の経済政策担当国務次官補に就任し、武器貸与計画の運用やブレトンウッズ会議の合意に結実する戦後国際金融システムの設計に尽力しました。1945年には国務次官に就任し、ジョージ・マーシャル国務長官の下、ソ連に対する封じ込め戦略(トルーマン・ドクトリン)の策定に中心的な役割を果たしました。対ソ封じ込め戦略の具体化として、ギリシア、トルコに対する軍事的、経済的支援を推進する一方、ヨーロッパ諸国の経済復興支援策(マーシャル・プラン)を立案しました。
トルーマン大統領の信任厚く、政権二期目の国務長官に任ぜられたアチソンは対ソ封じ込め戦略を継続し、北大西洋条約機構(NATO)の設立に尽力し、1950年に北朝鮮が38度線を越え韓国に侵攻すると、直ちに国連安全保障理事会の招集を求め、安保理による北朝鮮非難決議、米軍が主導する国連軍の朝鮮半島への派遣への地ならしを行ないました。
対外的には封じ込め戦略によって対ソ強硬路線を推進したアチソンも、国内では共産主義に対する弱腰を批判されました。アチソンの国務長官在任期間は、マッカーシズム旋風が吹き荒れた時期であり、国務省の中国担当やソ連担当の外交官が共産主義のシンパとして槍玉に挙げられました。元国務省高官のアルジャー・ヒスのスパイ疑惑が浮上した時は、ヒスを擁護したため、アチソンは更なる批判を招きました。国務長官を退いた後も、外交問題に関して歴代の政権に対して助言を行いました。
(マイクロ版タイトル:Dean Gooderham Acheson Papers)